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戦国時代の足軽部隊の多くは普段、農民なのですか?もしくは浪人などを集めるので...

aja0wawdgdtpさん

2014/1/2416:18:33

戦国時代の足軽部隊の多くは普段、農民なのですか?もしくは浪人などを集めるのですか?

大河ドラマを見ていて、最近、戦国時代に関心があります。

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sangetzさん

編集あり2014/1/2423:04:25

戦国時代の研究はワリと日進月歩で進んでいます。

かつては足軽部隊は農民からの徴発であり、信長が兵農分離を持ち込んだと言われてましたが、それに反する様々な資料が提出され、現在では、もっと早い時代から職業兵士としての足軽が存在したという説のほうが有力であると思います。

侍身分でない、下級兵士というのは、大まかに分けて領内からの徴兵と、傭兵に分けられます。
傭兵としての足軽は、応仁の乱のころからすでに出現しております。
彼らは様々な理由から、定職を捨てた人々です。戦乱で土地を追われたり、重税から逃れた農民が多くを占めますが、完全に職を捨てずに出稼ぎで参加したものもいると思われます。彼らは食い扶持稼ぎのため、あるいは冒険心によって兵士となりました。

抗争が散発的であった戦国初期では、足軽は臨時雇用のいわゆる傭兵であり、正規の武士やその領民兵が嫌がる汚れ仕事を担当する補助兵的な存在でした。雇用契約を打ち切られた足軽は、別の雇用主を探して点々とします。昨日までの敵に雇われるといった事態も結構あったようですね。職を失った足軽たちは出稼ぎであれば帰郷しますが、無職であれば野盗、野伏と化します。

大規模な戦国大名が出現し、抗争が大規模、恒常的になると、主力兵として大量に投入されるようになります。軍事行動が頻繁になったため、常時雇用の足軽が増加したと思われます。

1570年ごろの北条氏の知行割などを見ると、知行地がモザイク状に分散するようにあてがわれています。これは、農村から徴発するには甚だ不都合な形でありますが、一方で、知行地からの収入をベースに、給料の形で兵士を雇用するのであれば不都合はなく、武士の土着化を防止するのには適した形です。

同じ北条氏の軍役の定書を見る限り、武士ごとに割り当てられた兵員の動員方法については指定はなく、古来通りに農村から徴兵された農民もいたかもしれませんが、知行割のシステムから想像するからには、常時または臨時雇用の傭兵が多くを占めたと考えられます。

現実に、信長以外の戦国大名の軍事行動の期間を見てみても農閑期に限られるわけではなく、そこから、傭兵としての足軽が早くから浸透していたことが推測されます。

うつけ者と呼ばれた若かりし頃の信長のファッションは、傭兵足軽の出で立ちそのものであり、信長が足軽のスタイルを創設したというより、むしろ、信長自身が自由無頼の足軽たちの影響を受けていたことが伺われます。

戦国時代の支配形態は、土着勢力を外交的に服属させる形から、武士を土地から切り離し、直臣として支配する形へ変化していきます。戦国大名として直接支配力の進んだ大名ほど、傭兵足軽の割合が多くなると思われます。

戦国時代は、大量の敗者を生み出した時代でもあり、おそらく戦国末期には浪人を含む大量の失業者が傭兵となったことでしょう。

質問した人からのコメント

2014/1/25 17:14:54

なるほど、皆様ありがとうございます。とても参考になりました。戦国時代、とても興味が出てきました。

ベストアンサー以外の回答

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yaikomaeさん

編集あり2014/1/2511:04:15

>>戦国時代の足軽部隊の多くは普段、
>>農民なのですか?

多くは違いますが、詳細に説明しますと
大名によって違います。

「戦国時代」には「足軽」は「細川政権」下にて
「骨皮道賢」などの「足軽専門」の武士が現れており
「農兵」では無いです。

また「武田家」などは「農民・百姓=農兵」を禁止とする
軍法が見られ禁じていたようです。

「北条家」などは「安土桃山時代」に
「農兵」を借り出す「扶令」を1度だけ出しているようです。
しかし特例のようでこれから通常は「農兵」を禁じていたと
見られます。

一方で「織田、豊臣」などには多くの兵を必要とするのか
頻繁に「扶令」を出し「農兵」を駆出しています。

上記から「農兵」では無い「足軽」も現れる中、
「武田、北条」などのように「農兵」を禁じた
大名も居れば「織田、豊臣」などのように
積極的に「農兵」を使用した「大名」なども居ます。

>>もしくは浪人などを集めるのですか?

そういう例も多々あり「武田家」の「浪人衆」など
有名です。

■余談
余談ですが
「sangetzさん」の回答がとても正しく、

「chappy_kunshuさん」という方の回答が「歴史捏造」ばりに
酷い間違った回答です。

編集あり2014/1/2506:40:47

農民という語句を耕作人という解釈にして考えてみました。
上層農民、上層町人らもまた武士(厳密には中世史を専攻された方は侍という語句を使って区別をしています)
であったので切り離して考えないと趣旨と異なる回答になってしまいますからね。
耕作人らにも夫役がありました、中間・小者として従軍するのですが彼らは足軽ではありません。

寄親・寄子制の元で寄子として騎乗身分の寄親に従う寄子もまた寄親が軍役に従い引き連れてきた足軽とは別に足軽を連れてきています。
寄親に関して言えば北条家であれば足軽一人に付き給田として三貫文が与えられていたのですが寄子に関して言えば自前であり果して彼らが連れてくる足軽(一、二名程度)が傭兵なのかという疑問はありますね。
私見ですが寄子が連れてくる足軽は耕作人もいたと考えています。
戦争の拡大化にともない足軽についても規定がなされるようになれば、常備化の流れになっている足軽を雇い続ける事が困難な寄子もいたと推測しています。
ただ支配者層からすれば戦国大名の基盤は農業であり、地域国家の担い手である耕作人を足軽として徴用する事は国力の低下を招くので、軍役で否定していたという事ですね。
織田家が多くの足軽、武家奉公人を集める事が出来たのは信長自身が農業を軽視しており、惣村から田畑を捨て城下に流入する耕作人の行動を是認していた故に可能であった。
北条、武田、上杉らが足軽集めに四苦八苦していたのは常備化する為の資金がないとするより、農業重視政策により耕作人の離村を禁じた事により、離村して足軽となる元耕作人が少なかったという一面もあると考えています。

2014/1/2418:13:49

足軽というか、士分の者も多くは半士半農で普段は農民でした。
そして、足軽もまた士分です。
時代劇では、雑兵と足軽が混同されている場合が多く、
勘違いの原因ともなっています。
足軽の中には、浪人などの傭兵も少なくありませんでした。
ただ傭兵とはいっても、戦ごとに雇われるのではなく
一応、大名やその家臣に臣従していました。

これに対して、短期間の傭兵部隊(浪人衆)も存在していました。
武田信玄の浪人衆が有名ですよね。

katsuawa1234さん

2014/1/2416:36:58

農民ではありません。原住民を隔離した部落民です。

大河ドラマは江戸時代につくられた滑稽本などをアレンジしたもので、史実ではありません。現代でいうマンガのようなフィクションです。宮本武蔵なども、つくられた虚像です。

2014/1/2416:34:17

はい。織田信長が出現するまでは、殆どが農民でした。

農民なので、基本は、「 米 」を作っている人たちですので、「 春 」には田植え、そして、「 秋 」の収穫期には、必ず、故郷に戻って、稲刈りをしなければなりません。つまり、田植えが終わって、稲刈りまでの時期にしか戦争はできませんでした。

つまり、半年で終わる「近い場所」での戦争となりました。

これに対して、織田信長は、日本で初めて、「専門軍人」という仕組みを作りました。この人たちは、「戦争の専門家」で、故郷に帰って農作業をする必要がありません。つまり、雪さえ降らなければ、一年中、戦争ができたのです。また、日頃から戦争の訓練をしていたので、当然、農民集団よりは、強い軍事集団になりました。

また、「浪人」というのは、「 自分の家が没落、滅亡してしまって、仕事がない人たち 」が、多かったので、当然、「 田畑 」はありません。なので、この浪人は積極的に、信長の軍隊に志願しました。

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