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武田信玄や毛利元就に対する認識は、戦国に関してニワカかそうでないかを測る良い...

hok********さん

2014/2/1420:01:33

武田信玄や毛利元就に対する認識は、戦国に関してニワカかそうでないかを測る良い材料になるのが分かるというものです

>信玄は、周囲が自身と同じように一代で大勢力を築きあげたライバルだらけなので、版図が大きくなりにくかっただけであり
つまり元就は信玄と違って「一代で大勢力を広げられる名将」と直接戦った事はないのですよ


この文脈を見て、どうして「親から受け継いだ勢力を伸ばせないばかりか衰退させていった」大内と尼子の息子が
東国の列強と同じになるのですか?
それに同じであれば元就はあんなに勢力を拡大できてませんよ、大内義隆も尼子晴久も戦をよく知らないから
元就にあれこれ付け入る隙を与えてしまったというわけです

補足kawagoe1115さん (笑)
あなた、それを他人に話した事ないでしょう、そんな持論を理解する人間なんていませんよ
最大版図を広げたから凄い?ほんのわずかぐらいなら誰でも増やせて当たり前でしょう
親の代の時にそれだけ周囲の小大名を萎縮させてきたわけですから
大名の実力の度合いというのを全く理解してないんじゃないですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

tga********さん

2014/2/1603:40:30

スタート地点が他国より優位であれば、親からの遺産?とやらである程度は勢力は伸ばせるもの
武田勝頼も北条氏政も毛利輝元なんかもそうです

彼らのような青2才と、列強と競い合って大勢力を作り上げた百戦錬磨の大名と同列に見たがる人間を相手にしても仕方がありませんよ

質問した人からのコメント

2014/2/16 16:07:37

それがごく当たり前の認識なんですけど、全体像を見通して基本的な認識すら得られない
人間が可哀想になってきます

晴久が経久の孫だって事ぐらい承知であり、しかし直接の国主としての指南を考えれば親子同然なんですけどね

ベストアンサー以外の回答

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村治古さん

2014/2/1606:58:01

>大内義隆も尼子晴久も戦をよく知らないから
>元就にあれこれ付け入る隙を与えてしまったというわけです


大内義隆と毛利元就って戦ったことありましたっけ
実は陶の謀反は裏で元就が・・

不適切な内容が含まれている可能性があるため、非表示になっています。

投稿内容に関する注意

jef********さん

2014/2/1520:28:10

歴史なんてものは人それぞれの解釈で成り立ってるわけで、君みたいに狂信的になるのは邪魔な人間であるだよね(笑)
ま、君の脳みそじゃ理解できんと思うが(笑)

kaw********さん

編集あり2014/2/1519:00:59

>>「親から受け継いだ勢力を伸ばせないばかりか衰退させていった」大内と尼子の息子が
東国の列強と同じになるのですか?
それに同じであれば元就はあんなに勢力を拡大できてませんよ、大内義隆も尼子晴久も戦をよく知らないから
元就にあれこれ付け入る隙を与えてしまったというわけです


いや、戦国大内家最大版図を築いたは義隆時代ですし、尼子家にいたっては誰がどう見ても晴久時代が最も版図は大きかったのですが?晴久は経久の孫ですし・・・
特に晴久なんて備前や播磨にまで遠征し浦上宗景を追い詰めています。というか浦上家が政宗と宗景の二つの浦上に分裂したのは晴久の侵攻のせいなのです。晴久はその武威から足利義輝から中国八か国の守護を任されています。また美作に至ってはかなりの間戦線を維持し続けました。経久時代にここまで尼子家の勢力が伸びたことはありませんよ。
よそ様をニワカ認定するなら、これぐらいのことは当然知ってますよね?

追記
>>最大版図を広げたから凄い?ほんのわずかぐらいなら誰でも増やせて当たり前でしょう
親の代の時にそれだけ周囲の小大名を萎縮させてきたわけですから

だから晴久は孫だと何度言えば・・・
それに祖父だとしても経久の時代に播磨や美作、備前の大名を委縮させた?笑わせないでください。経久時代にはこれらの国の領土には尼子氏はまったく手を伸ばせていませんよ。それなのに「委縮させてきた」と断言できるということは、美作でいうなら三浦氏やら後藤氏や中村氏の手紙や日記でもあなたは持っているのですか?持っていたら是非ご提示お願いします。
それに晴久は美作戦線においては1548年に支配下においてから晴久の死没まで十年以上維持し続けています。
あなたは武田氏が信虎の悪政のせいで割れたのを統一しただけだの、他人の知識不足を指摘する割にはご自分の知識の量が乏しすぎます。


>>大名の実力の度合いというのを全く理解してないんじゃないですか?
いや、当たり前じゃないですか。正確なものなんて分かるわけないですよ。だから何度も言ってるじゃないですか。「別に元就が上で信玄が下だということはない。というか比較何て出来ない」と
歴史学者ですら喧々諤々やっていて分かれているものを、あなたは人に対して「分かってない」なんて言えるほど理解しているんですか?凄いですね。
いったいどんな資料を基にその度合いを測定してのか是非御教授のほどお願いします。当然一次資料で


>>尼子晴久も戦をよく知らないから元就にあれこれ付け入る隙を与えてしまったというわけです
それに気になったのですがこれいったい具体的に何ですか?教えてください。まさかと思いますが新宮党の粛清を元就の謀略によって行ったとかいう、超少数説ですか?晴久が生存時は山陰地方では尼子軍はほぼ勝ちっぱなしですよ。尼子が衰えたのは雲芸和議の後のことです。


義隆にしても太宰大弐の官職を得て松浦氏を取り込み、少弐氏を撃破し豊前を奪って肥前にまで領土を拡大、博多も実行支配して後に九州三強の一角になる龍造寺氏も服属させています。


晴久も義隆もあなたが言うような「親から受け継いだ勢力を伸ばせないばかりか衰退させていった大内と尼子の息子」
ではないと述べているに過ぎないのですが?

bir********さん

編集あり2014/2/1518:37:04

尼子晴久が戦へた、という人は間違っています。
というのは、先代の尼子経久が成せなかった、
因幡、美作、備前、備中、石見の東半分という
増大領土は尼子晴久の代で武力行使で、成し遂げた
からです。
それよりも尼子晴久は戦い を、やり過ぎて
尼子は疲労して衰退したようですし、
尼子晴久は疑り深い君主で、味方で叔父の
尼子国久を謀叛を企てたとして討ったり、
かなり内部抗争も晴久の代で尼子は激しく、
そういう、やらなくてもよい内輪もめ、を
、やっていたので毛利の急成長とタイミングが
合ってしまった。毛利元就も尼子晴久が生きて
いるうちは尼子を攻めなかったが尼子晴久が
急死したら、すぐに石見の銀山を奪回に
攻めにいきました。
大内義隆は、指摘の通り戦を知らず、
だから、この大名は、戦は重臣の陶に丸投げ、
していました。陶が謀叛したのは、
大内義隆が戦が上手くない相良氏を寵臣に
したのでヒガんで謀叛した、らしい。
大内義隆が陶を見限り始めたのは、
陶の指揮した大内の尼子討伐が尼子晴久の
月山冨田城下での大反撃で失敗し追撃されて
大内は大損害したからで、尼子も晴久が生前は
毛利より強いときも、あったくらいでした。
陶は謀叛で大内を簒奪したが詰め、が、甘かった。
本当に毛利を やっつけたければ、陶は
宿敵・尼子と手を結んででも、するべきだったが、
陶は尼子などと手を結ばずとも毛利を やっつけられる
と思ったのでしょう。
それに、毛利を単独で、やっつければ、
石見東部、安芸、備後という広大な領土が一度に
得られるので陶も尼子も、譲り合わなかったのでしょう。

>kawagoe1115さん (笑)
>あなた、それを他人に話した事ないでしょう

みんな知っていますよ。知らない人のほうが少ない。

2014/2/1420:38:23

>武田信玄や毛利元就に対する認識は、戦国に関してニワカかそうでないかを測る良い材料

そうだね。
素人は、「武田信玄は山岳~」なんて馬鹿な事を書くよね。甲府盆地って中学校で習うはずなんだが。林業なんかで大名の中核的な経済力を担えるはずは無いよ。
それに、甲州流軍学(笑)。江戸の創作なんだけどね。
「史料批判」とか「一次史料」なんて言葉の意味も知らないんだろうな。

私はアンチなのではなく、もっとも有効な貨幣を発行した経済に明るい戦国大名として武田信玄を高く評価しているが、江戸の創作を信じてるような人とは一緒くたにはされたくないな。

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