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赤松満祐はなぜ義教を殺したのでしょう。倒幕が目的ではなかったようですし、あま...

iaa********さん

2014/2/2222:35:22

赤松満祐はなぜ義教を殺したのでしょう。倒幕が目的ではなかったようですし、あまり計画性がなかったのではないかと思えます。その割りに大きな事をしているので腑に落ちません。

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har********さん

2014/2/2302:01:08

嘉吉の乱にいたるまで、将軍家と赤松家は結構いろいろありまして、
かなり根が深いので、長文になりますことをお許しください。

まず赤松家が三管四職と呼ばれる地位を得られるようになったのは、
足利義満が京の騒乱を避けるために播磨に避難し、それを赤松家が助けたからなのです。
そのおかげで、義満が三代将軍になりますと、満祐の父・義則が幕臣としての地位を固めました。

一方、義満は有能な将軍であったかもしれませんが、
後顧に憂いを残すようなことをしてしまいます。
嫡男で四代将軍となった義持を愛さず、弟の義嗣を溺愛してしまったのです。
義嗣は義満の北山第(金閣寺)に置かれただけでなく、
幼少期に官職を与えられ、帝から天盃を下賜され、親王級の元服式がおこなわれたほどです。
この義嗣の元服のとき、義持は京市中の警護を命じられていました。
義持の気持ちを考えますと、切なくなってしまいますね。

やがて義満が亡くなりますと、義持が鬱憤を晴らす行動に出ます。
義嗣を殺害した上、北山第も破棄し、勘合貿易などもやめてしまったのです。
まるで義満の存在を消し去るような行動は、
それだけ父への恨みが強かったということなのでしょうね。
そんな義持でしたが、父が引き立てた赤松家には手出しできませんでした。
赤松義則は明徳の乱では山名戦で、応永の乱では大内戦で手柄を立てていて、
幕府内では必要不可欠な存在になっていたわけです。

ところが、義持が隠居して義量が五代将軍になったときに1つ事件が起こります。
春先に細川邸で酒宴が催されたのですが、
そこで酒に酔った富樫という将軍家の側近が、赤松家をからかいはじめました。
これに激怒した義則の息子(満祐の弟の義雅、則繁)が富樫を斬ってしまったのです。
寵臣を殺された義量はさほど怒りを見せなかったものの、義持は怒り狂って赤松潰しに動き出しますが、
赤松家の重臣である浦上某が、主家の罪を一身に背負って自害したことにより、
1つ目の危機は回避されました。

次に、義則が他界したときに2つ目の危機が赤松家を襲います。
守護職というのは世襲ではなく、代替わりごとに将軍家から許可を得ることになっていたのですが、
義量亡きあと幕府の実権を握っていた義持は、
赤松家の新たな当主となった満祐が三度も伺いを立てたのに、まったく首を縦にしなかったのです。
このままでは満祐は守護になれませんよね。
さらには、義持が近習をつとめていた赤松家の分家である持貞に、守護職を与えようとしました。
このことを知った満祐は、京の屋敷に火を放って播磨へ引き上げ、戦支度をはじめます。
幕臣たちは赤松家に非がないことを知っているため、
火種となった持貞が将軍家の側女と密通したとの罪をつくって切腹に追い込んでから、
義持を諌めて、どうにか満祐を救ったのです。
赤松家は、これで2つ目の修羅場も回避できました。

で、いよいよ義教が登場します。
はじめ義教は名君でした。義持が捨てた北山第を復興し、勘合貿易も再開します。
だれもが幕府が最強だった義満の時代が戻ってきたと思ったことでしょう。
赤松家でも満祐が侍所所司をつとめたり、1つ目の事件の首謀者である義雅が摂津に所領を得たり、
則繁が幕臣に加えられたりして、再び盤石の基盤を築くかと思われました。
しかし、重臣中の重臣である畠山満家が鬼籍に入ったころから、義教は暴君へと変貌していきます。
比叡山と一戦交えたり、有力守護の人事に介入したりして、
「万人恐怖」と呼ばれるほどの悪政をおこなうのです。
そして、火の粉は赤松家にも降ってきて、3度目の危機がやってきます。

赤松家は大和の紛争に、義雅と軍勢を送り出していたのですが、
この義雅になんの落ち度もないのに、摂津の所領が没収されてしまい、
分家(先の持貞の系統)の貞村に与えられたことに加え、
義教は満祐から守護職を取り上げて、これも貞村に渡そうとしたのです。
3度も窮地に追い込まれた赤松家は、とうとう我慢の限界がきたのでしょう。
義教を自宅へ誘い出して、謀殺する暴挙に出たのでした。

ご質問にあります討幕の意思があったかどうかは定かではありません。
満祐は義教を殺害後に、きちんと供養をしていますし、
管領の細川持氏に敵意がないこと、将軍殺害は仕方がなかったことを伝えているのです。
ですが、これは旗頭にするためだと思われますが、
備中井原にいた足利尊氏の孫・義尊を担ぎ出して四方に檄を飛ばしていますから、
万が一、勝つことができれば、一気に倒幕へ――と考えていた可能性はありますね。

以上、長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。

質問した人からのコメント

2014/3/1 11:23:03

迷いましたが、これほど詳細に説明して頂けるのもめったにない事ですのでベストアンサーに選ばせて頂きました。皆さんありがとうございました。

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hd3********さん

2014/2/2312:24:10

確か、将軍義教はくじ引きで将軍になったんではないですか。多分義教は自分がくじ引きでなったこと意識して過剰に大名たちに自分の力を見せつけたんではないでしょうか?自分の将軍としての力、権力を見せつけて、逆らう者は討伐。それに赤松満祐は恐怖を感じいずれやられると思い先に将軍を殺害したんではないですか?

chu********さん

2014/2/2303:55:01

既得権を犯されると思ったからだと思います
室町時代は幕府の力が弱く地方の大名が好きに統治していました。幕府には今風に言うと立法権も行政権も無く、司法権が多少、ある程度でした
足利義教という人はこの状況を変えようとしたため、既得権を犯されると思った守護大名に殺された。のだと思います

met********さん

2014/2/2222:48:04

赤松が何を思って義教を殺したのかは、なぞですが、殺さなければ自分が滅ぼされると思っていたのでしょう。
確かに、しっかりした反乱計画はなかったようです。
ふと、「こうやれば公方を暗殺できる」と思いついてフラフラと実行してしまった、という感じで、殺してどうするのかは考えていなかったようです。

どうやって、逃げるかも考えていなかったようなのに、他の大名や幕臣たちがだらしなくて、大混乱をおこしたため、結果として堂々本国へ帰ることが出来たようです。

ところで、足利義教と織田信長は何かと似ています。
イワン雷帝的な存在で家臣たちから恐怖されていたこと、自分は天に選ばれた存在だという妙なうぬぼれがあったこと、最後は油断して平時の無防備のときに家臣の謀反で殺されたこと、暗殺の理由が今一不明なこと。

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