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イエス・キリストは世界の罪,多くの人の罪をを背負って、十字架の上で処刑されたと...

asi********さん

2007/8/523:15:54

イエス・キリストは世界の罪,多くの人の罪をを背負って、十字架の上で処刑されたと理解してますが、これは私の間違いですか?うまく書けませんが、何故十字架にかけられた事が自分以外の罪を背負う事になるのです?

決して批判的な意味の質問ではないです。いま、キリスト教に惹かれて関心があるが為、色んな事がまだ理解できずに気を悪くされたらごめんなさい。

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no_********さん

2007/8/700:21:47

イエスが人として死ぬ運びになったのは、
1:最初の親が罪を犯して不完全さに陥り、
その不完全さが子孫すべてに及んでいる。
2:全能者は、子孫には直接的な罪がないので、
ふさわしい者、できれば子孫すべてを元の完全さに回復させたい。
2:全能者の法では失われたものは同等のものであがなわれなければならない。
最初の親が失ったものは完全な人間としての命であった。
しかし、人間の中に完全な者はもういない。
3:全能者は、法を曲げてその偉大な力を用いて無条件に人を不完全さ
から開放するということはできない。自らそうすれば前宇宙の秩序は保てない。
4:そこで、全能者はそばにいる者たちの中の誰かを完全な人間として地上に送り、
その者が法的要求を満たして人類を不完全さから解放する道を開くことにされた。
5:そこに、地上に来てイエスと呼ばれることになるみ子がその役を買ってでた。
全能者はみ子を送ることを最善とお考えになった。最も信頼する者、最も愛する者を
犠牲となるよう送るほどに人類に愛情を持っておられるからである。
6:イエスは最初の親、アダムとは違い、罪を犯すことなく殺されたので、
その命の価値は人類を完全さに引き上げるのに十分なものとなった。
7:イエスも復活したが、イエスは罪を犯して死んだのではないので、
善良な者イエスに全能者が良いことを行う場合、
特にそれを制限する法も限界もない。

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syu********さん

編集あり2007/8/923:45:35

あなたの疑問通りに、他人が他人の罪を被って消すということはできません。
ましてイエスは神様ですから、人間に戦い方の智慧(剣)を投げ込みにこられたコーチです。

人は一対一で神様と対峙しており、魂を真珠に育てるという作業をしています。誰もこの二人三脚の中には立ち入れないのが鉄則です。即ち、自分で蒔いた種は自分で刈り取る、因果応報は、親子でも手が出せないのです

で、イエスは人の親、神の代理として私達に現れて、どうしたら、魂を真珠に育てられるか・汚したり、傷を付けたりする原因はなにか・どうしたら修復できるかを教えて下さったのです。いわばスポーツ選手のコーチであり、手本を見せて教えてくれますが、実際に試合で戦うのは私達であるのです

魂の罪穢れの背負い方=解消の仕方は、「反省である=私は渇く=ドライであった」ことに目覚める事です。つまり、世間を渡る人生の苦労は、親神が子(私達)を育てるための風雪である、という真理を知ることであり、幸に成る為に苦労がある。トレーニングをしていると解れば、苦労の中に希望が見えて、苦労と思わなくなるのです。

「重い荷を負っているものは私に来なさい、わたしが楽にしてあげよう」、はイエス=コーチは選手のより真剣なトレーニングを促す尻叩きであり、これが宗教の目的であるのです。

現教会の教えは甘すぎます。「ほーほー、蛍来い、こっちの水は甘いぞ」、大衆はこの甘言を叫ばなければ集まってこないという事情もありますが

ペテロは初代教皇で教会の代名詞として聖書に表されています。曰く、「鶏が鳴くまでに三度イエスを知らないと言った」。「ペテロよ、あなたは私を愛するか」イエス様は三度(春夏秋)ペテロに詰問されたのでペテロは、イエスの疑念に嘆いた。

ダビンチの最後の晩餐では、ペテロはイエス(精神=比喩の時代)とマグダラ(ヨハネ=真理の御霊=イエスの復活を最初に知る)の間(腹=朝真の原)に出来た魂に刃物を当てています。
ミケランジェロの最後の審判でも天から雲(アイオーンの輝かす力=48音=預羽)に乗って現れる青年イエスにペテロは苦々しい顔をして銃口を向けています。

つまり、教会の教えはイエスの救いの教えをぶち壊す間違った指導をする。この代表的な言葉が、「イエス・キリストは世界の多くの人の罪をを背負って、十字架の上で処刑された」であると断言できます。
イエス様は誰の重荷も背負ってくれない。重荷を背負う先に幸と天国があると、手本を見せてくれただけです。人は夫々の重荷は夫々の魂(状態)でもありますから、自分で運ばなければならないということであり、ゆえに因果応報、絶対公平の神の実在と働きが信じられるのです。

●イエスはなぜ十字架に架けられたか?ゴルゴダ劇が聖書の全て
横木(肉体本能の怠け心=腹の虫の蝮=真無視)を髑髏の丘(あたま=天立間)まで運び上げられなかった=腹の虫に精神(火=縦木)が負けた=荊冠=考え方に角があった、ゆえに、縦横=精神と肉体=火と水をクロスすることをやり直させられたのです。つまり肉体本能を治めて(釘をさして止めて)精神の火の気が燃えるように、霊主体従の形にされたのがロザリオの教えです。そしてこれは全ての人が通過しなければならない火の洗礼=ハルマゲドン=フォトンベルト突入の予言でもあるのです。

●肉体を治めれば天国に迎えられる
これが結論です。イエスは「私は渇く=ドライであった」と反省して、人々の差し出す酢い葡萄酒を受けた=人生に与えられる苦労を精神力で我利を治めて利他愛に生きた=光りを発する者(=夜空の恒星の如く暗い世間にあって光りとなる活動を開始したということです。

人間は門(月)の中で日の光を発する者で、この積み重ねは天への結晶(神=自由無碍)と成る、です。辺=精神の刀で腹の蝮を治めて船(助=母)として利用すれば帆掛け舟となって彼岸(天国)に向かうと漢字神示されています。ゴルゴダ=午瑠は語だ=収穫の晩秋は諏訪せよ=主に和すことができる、です。

イエス様は私達の親としての演技ですから犠牲というには語弊があります。しかし、神は人類の覚醒の為に、一部の人を犠牲にされることはあります。これは一人に悪霊軍団が付いていて、これを追い払うために2000頭の豚が溺死したという聖句で教えられています。本当は村人全員が被らなければならない、悪霊による罪滅ぼしを一人に留めておいて下さったということです。

ここから私達は世界の様々な災難を聞く時、全ては自分への警告であると受け取る事が正解であるということになります。夫々が神と二人三脚をしている厳粛な果であるとはいえ、人の親が長男を兄弟の代表として叱るように、神も直接叱らないでおいてくださるという大愛情を発揮されているのです。

「郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」、このくらいに自己を戒めることが謙虚で、神の意に叶うのです。

秀思學

rom********さん

2007/8/622:00:34

罪を背負ってというよりも、神と人間との関係を正しいものにするために、すべての人の罪の赦しを求めて、自らの命を神に捧げられたのです。

キリストが、自分の犯した罪ではなく、全然無関係の人の罪なのに、その罪の赦しを求めて、自らの命を捧げられたことが、その御方を「主」と崇める人の救いとなるのです。

主と崇めない人にとっては、十字架の死はただの死にすぎません。





 

ref********さん

2007/8/601:24:32

あなたの理解で間違っていません。
キリスト教の理解によれば、キリストは世の罪を背負って十字架に倒れたのです。

十字架にかけられたことは、キリストが人間の法によって裁かれた、すなわち人の罪によって裁かれたということになるのです。
人間の法は、人間の原罪によって神の法と対立する存在として捉えられています。
また、キリストは神の子であるとともに人の子でもあります。
キリストは人の子として、神の法と対立する人間の法に倒れることによって、本来の意味での犠牲すなわち神への捧げ物となったのです。
自らを犠牲にすることと引き換えに、人間の罪を許してやってくれ、と父である神に頼んだわけです。
キリスト教では、この引き換えの取引が、「人間の罪を背負った」と解釈されているのです。

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