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今川義元が死んで、松平元康が織田側につくわけですが、

木野誠さん

2014/3/2204:15:45

今川義元が死んで、松平元康が織田側につくわけですが、

桶狭間の合戦から武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄するまでに、
松平元康(徳川家康)が獲得した今川領を教えてください。

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川崎さん

2014/3/2206:58:19

信玄が三国同盟を破棄し、駿河侵攻を開始した年の12月13日に浜名湖の西にある宇津山城と東海道付近の白須賀城に侵攻を始めます。どちらも三河国境からすぐ近くです。

さらに北からの侵入路には井伊谷三人衆と呼ばれる豪族がいましたが、彼らはすでに家康に内通していたものの、侵攻前はまだ表面上は今川の傘下です。

このことから、三国同盟崩壊前に家康が遠江に持つ城は無いと言えます。

質問した人からのコメント

2014/3/28 09:54:30

ありがとうございました

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f27********さん

編集あり2014/3/2306:44:18

桶狭間の合戦時、今川の勢力は駿遠三のほぼ全域に加え、尾張の一部にも及んでいました

ということは、松平元康が独立して「回復」した領地は、見方を変えれば「今川から奪った」領地ともいえるわけです

三河の内で今川の親族や直臣の城であった主だったところを挙げると、
上ノ郷城(永禄5-1562年攻略)
田原城(永禄7-1564年攻略)
吉田城(永禄8-1565年攻略)
といったところです

ちなみに、遠江には永禄11(1568)年、武田との今川領分割協定までは表面上手を出していません

同盟者の織田は武田とも同盟を結んでいて、武田と今川の同盟が、形だけでも生きているうちは、それ以上の侵攻は控えていたのでしょう

つまり、「武田信玄が甲相駿三国同盟破棄する前に獲得した今川領」は三河のみということです

bir********さん

2014/3/2208:04:14

徳川家康が遠江に進出できた、のは前は
今川家中だった譜代家臣の久野氏と
小笠原氏が徳川の味方に、なってからです。
この2氏は勢力が強く独立性が旺盛で、
今川が衰退し滅んでも、あまり影響を受けない
ほどだったが、武田の脅威に対抗するため
徳川の味方になった。もっとも当初は、
徳川も、この2氏を家臣にする、というより、
かなり同格あつかい、として待遇も破格にして
懐柔したそうです。
しかし武田との攻防が徳川が不利だったときは、
遠江の地侍の過半が武田に寝返り、
徳川の本拠の三河の東部にすら武田の味方が続出。
徳川が不利な情勢は武田信玄の死後も続き、
遠江で最強の城といわれた高天神城を武田が攻めた
とき、そこを守った小笠原氏は武田に寝返り
高天神城は陥落。

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