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私は日蓮正宗信徒です。日蓮正宗の皆さんにお聞きします。十五世日昌上人から二十...

sek********さん

2014/6/717:49:47

私は日蓮正宗信徒です。日蓮正宗の皆さんにお聞きします。十五世日昌上人から二十三世日啓上人までは、 末寺の京都要法寺から御晋山された御法主上人猊下でいらっしゃいますよね。でもその後、二十四世日永上人以降は、要法寺から御法主上人が御晋山なされなくなってしまいましたね。それは一体何故なのでしょうか。総本山と要法寺の間で揉め事でも起こったからなのでしょうか。

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Fujigozanさん

2014/6/1321:14:40

戸田門下氏が回答している様に、大石寺と要法寺の間で教義の相違が露になったのです


即ち像造読誦を巡る問題です


要法寺出身法主によって大石寺門法に齎された像造読誦ではありましたが、同じ要法寺出身ながら富士の流儀を習得された日俊、日啓両上人の英断により、造仏は排除されました


これにより要法寺との関係は悪化し、通用は御破算となったのです


この辺りの経緯を要法寺貫主日舒師は、悔し紛れに次の様に述べています


『然るに日俊上人の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へ隠したり、日俊上人は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々』


しかして大石寺では、日主上人以来の大石寺出身御法主日永上人が誕生されていよいよ破邪顕正の機運が高まり、中興日寛上人によって要法寺流の邪義は徹底的に破折されたのです

質問した人からのコメント

2014/6/14 06:09:52

ご回答頂けないのかと思っておりました。詳しいご回答ありがとうございました。

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戸田門下さん

2014/6/820:18:22

答え
要法寺が、造仏・一部読誦に固執するようになり、大石寺の教学と違ってきたから。


参考までに

御法主日顕上人猊下お言葉 仏眼寺本堂改修庫裡新築落慶法要の砌
昭和五十五年十二月十七日

本日は当仏眼寺が、本堂を改修し、御宝前を荘厳せられ、また庫裡を新築せられまして仏恩報謝の説を表わされたことは、まことにお喜びにたえない次第でございます。

皆さんも御承知のように、当寺は一説には康永二年(一三四三)の建立ともいわれておりますが、日興上人のお弟子である日尊上人の開基であります。その開創の年につきましては、康永二年には日尊上人は京都におられ、その二年後にはお亡くなりになっておりますから、それよりもかなり以前に建てられていたのではないかということも考えられるのでありますが、いずれにいたしましても非常に古い歴史をもつ、宗門の名刹でございます。


ところが、その古刹である当寺におきましても、その長い歴史の中においてはいろいろな大難があったのであります。近いところでは、当寺の開基であられる日尊上人の終焉の地である京都の要法寺の末寺とされるという、法難がありました。



この要法寺というのは〝興門八箇本山〟(富士大石寺・北山本門寺・京都要法寺・伊豆実成寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺)の内の一つでありますが、本来、その根本の意味から考えますならば、総本山である大石寺の末寺であるわけでございます。即ち、大聖人様の出世の御本懐であらせられる本門戒壇の大御本尊様は、大聖人より日興上人へ伝えられ、日興上人は日目上人へ、以来日道上人・日行上人へと伝えられまして末法万年にわたる広宣流布の基盤とされたのでありますが、その根本道場が大石寺でございますから、あくまで大石寺が総本山であり、他の七箇寺はすべて末寺となるわけであります。


そのような筋道は、宗門の根本の時代にあってはきちんと解っておったのでありますが、時の流れに従っていろいろと社会の変動があり、あるいは魔縁の興盛等によりまして、いつしか根本の筋道を忘れてしまい、大石寺が総本寺であることを忘れて八箇本山のそれぞれが〝自分の寺が本寺である〟との我見をもつようになってきたのであります。その辺の経緯は今ここで簡単に申し述べられるものではありませんが、明治の時代を迎え、大石寺を中心とする正法の僧俗は〝いかに興門のなかではあっても、我見をもって正しいものを認めない者達と一緒になっていては到底、正しい広宣流布はできない〟というふうに考えまして、大石寺が独一の本寺として独立すべく官に請願を繰り返したのでありますが、当時の法律によって、それは認められなかったのであります。しかし、それでも何回となく請願を繰り返し、明治三十三年「一九〇〇)、ついに〝日蓮宗富士派〟として、独立したのでございます。

そのときに、大石寺が独立したことを嫉んだ京都の要法寺が、いろいろな難題をふっかけてまいりました。その内の一つとして、この仏眼寺――あるいは近くにある日浄寺もそうでありますが――について〝当寺は元々、日尊師が建てたものであるから要法寺の末寺である。したがって即刻、寺を引き渡せ〟と言ってきたのであります。そして、いろいろな紆余曲折がありまして控訴審まで争いましたが、〝日尊師の開基である〟ということもあって、遺憾ながら二回とも大石寺が敗れてしまったのであります。よって当仏眼寺は、大石寺の元を離れて要法寺の末寺となることで、法律的に決着が付いてしまったのでございます。


しかしながら、当時の住職であられた佐藤日照御能化は、法律的には完全に敗れたにもかかわらず、強い信力をもって、門の所に陣取って対抗されたのであります。その時の因難は筆舌に尽くせぬ情況であったと承っておりますが、昭和十八年に――当時の時局の進展に伴って制定された〝宗教団体法〟の助けもあったようでありますが、要法寺との紛争に一切の解決をつけて、大石寺の末寺として認められたのでございます。

当時の檀信徒の皆様が一致結束をして〝我々は大石寺が根本の本寺である。仏眼寺が要法寺の末寺になるようなことは、絶対に承知できない〟という大石寺に対する信仰と団結の力、及び住職の強い信念によって勝つことができたのでありまして、その一致結束しての力により、不当な判決をくつがえし、既に入っていた要法寺の僧侶を排除して、この仏眼寺を真の大石寺の末寺として、今日に在らしめたのでございます。


この仏眼寺は長い歴史があるとともに、住職並びに檀信徒の命懸けの信心によって正しく護られたのでありますから、その深い意義を忘れることなく、総本山大石寺を根本とし、戒壇の大御本尊様を根本とする信心を、どこまでも貫いていっていただきたいと念願する次第でございます。

mu8********さん

2014/6/810:36:29

稚児貫首、が続きそれから要法寺から続き、第20世日典時代、ここから江戸時代のあいだ、幕府からの御朱印状をもらい、謗施をを受けるようになり、寺受け制度に埋没するあります。
二十五世日宥時代天英院殿・幕府からあのご自慢の三門を寄進されたにのです。
そのような歴史を見ると。大石寺の困窮の姿が浮かび上がってきます。位の高い所から何代のもわたり稚児貫首を迎え多額の金を頂戴する。要法寺から貫首を迎えるのも、人、カネが入ってきます。日精時代から人事権すら放棄しても金が欲しい、ついには膨大な幕府の援助を受けることにより要法寺は及びではないということになたのでしょう。これは今や宗風と言えるでしょう、戦後苦しい時は学会だよりにし、余裕が出たら及びではない、まさに歴史は繰り返すですね。

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