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1902年4月に露清間で満州還付条約が成立し3期に分けて、段階的に満州駐屯軍を撤兵...

spiritually_knightさん

2014/6/1500:00:41

1902年4月に露清間で満州還付条約が成立し3期に分けて、段階的に満州駐屯軍を撤兵させる約束を交わしたと思うのですが、

1903年4月の2期以降の撤兵に応じず、日露関係が緊迫がはしりましたよね?

これが、直接の日露戦争勃発の原因となったのでしょうか?それとも、ロシアが満州から撤退しなかったのは直接の原因ではありませんか?

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yuukoudukiさん

2014/6/1507:42:50

日露戦争の直接的なきっかけは満州ではなくて朝鮮でした。
それ以前に西・ローゼン協定が結ばれていて、ロシアとは満州と朝鮮において互いの優位を尊重していました。ですから、教科書で出てくるような伊藤と小村の路線対立は正確ではなく、「満韓交換」は成り立っていたのです。
ところが、1903年にロシアは朝鮮北部の龍岩浦に進出して砲台を築き始めました。
いわゆる龍岩浦事件です。
これは西・ローゼン協定違反であり、ロシアのまぎれもない”侵略行為”でした。ロシアの狙いは不凍港の確保でした。
旅順とウラジオストクのみでは当時の蒸気船では燃費の問題から安全な航行ができず、しかも対馬の存在があるために朝鮮を万全の中継地とする必要があったのです。
ロシアの強硬姿勢を煽った宮廷グループに海軍軍人がいるのも関係があります。
日本はただちにこの問題の重要性に気付いて同盟国イギリスに報告、イギリスもこれを受けて調査員を派遣して事実を認定しました。一方のロシアの同盟国フランスはロシアがアジアで問題を起こすような姿勢でいることに驚愕しました。

後に桂が発表して山縣が「作文だ」と酷評した無麟庵の会議にて事態を理解していたのは伊藤と小村でした。
以降は日露間の外交はこの問題解決のための交渉となるのですが、ロシアは傲慢でついには中央政府との交渉をせずに極東府と交渉しろと言い出します。
ここにおいて国家間での外交交渉による解決は不可能と考えた日本は戦争を手段とすることを決意します。
ロシアが満州にとどまっているうちは緊張関係にあっても日本が攻撃を仕掛けることはなかったでしょう。このあたりについて司馬もろくに理解できていません。

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