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大伴氏は、壬申の乱で大海人皇子側にくっついて復活するのですか? いったん復活...

dyw********さん

2014/8/1322:59:05

大伴氏は、壬申の乱で大海人皇子側にくっついて復活するのですか?
いったん復活するのですか?

大伴金村が賄賂を貰っていたとか、と言う事で失脚して大伴氏は閉塞し奮わなくなりますが。
そのかなり後になりますが、壬申の乱で大海人皇子軍に参加する事で、いったん復活するのでしょうか?
天武天皇即位に大きな功績があったと言う事で、朝廷内での地位が上がるのでしょうか?
上がったと言っても藤原のほうがかなり上だったのでしょうか。
いったんは、藤原に肉薄する地位まで登ったのでしょうか?

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pin********さん

2014/8/1708:44:03

「大伴氏」は、本来、九州倭国王の官僚(豪族)で、近畿地方に派遣されていましたが、応神系の衰退後、同族の継体が越前から進出した来たのに呼応し、「527年の筑紫君磐井の乱」に加担しますが、継体から九州倭国側に寝返った物部氏や新興の蘇我氏により権力が失墜し、近畿地方の大伴氏の土地が、九州倭国王に屯倉としてたくさん献上されます。
「日本書紀」では、もう一つ540年前後に、いわゆる「任那4県、2県の割譲問題」で失脚しているよな記述がありますが、「継体ー安閑ー宣化」と「欽明の即位」の事情により何年かの空白があるようで、「割譲問題は、磐井の乱(継体の乱)と連動しているようです」。
いずれにしても、「大伴氏」は一旦、物部氏、蘇我氏の後塵を拝していますが、完全に没落したわけではありませんが中央政界から退きます。
名前が出てこないのは、「日本書紀の編纂上の問題」があります。
「日本書紀」は、「九州倭国系の推古」の後に、「舒明―皇極―孝徳―斉明―天智称制-天智―大友」をはめ込んで「天智―藤原系が主体の歴史を記述しています」、その為に九州倭国系の「大伴氏」の名前が前面に出てこないのです、これは「大伴氏」の名前だけでなく、九州倭国系の歴史そのものがカットされているのです。
「壬申の乱」の原因は、九州倭国が白村江で、唐ー新羅の連合軍により大打撃を受け、大混乱の最中に、「天智が近江に政権を無理やり樹立した(天智の乱)」ためです。
671年に、唐の捕虜となっていた、九州倭国王筑紫君薩野馬が帰還してきます、そして、弟の大海人皇子と高市皇子に命じて、「天智朝-大友」の討伐を指示します、これが「壬申の乱」です。
衰退していると言えども、「大伴氏」は九州倭国王の官僚(豪族)です、この戦いで、名誉挽回は当たり前の事です。
この「壬申の乱」後に、少し時間を置いて、九州倭国は「大宰府(遠の朝廷)から新益京(藤原京)」に遷都してきます。
以後、「大伴氏」は「壬申の乱の功」により復活を遂げるのです。
大伴馬来多(望多)、大伴吹負、大伴安麻呂、大伴旅人、大伴家持、、大伴古麻呂、大伴池主、大伴古慈斐、大伴駿河麻呂など等。
新益京(藤原京)遷都後の、九州倭国系の皇統、「筑紫君薩野馬ー高市皇子―文武ー元明ー元正ー聖武―孝謙―淡路廃帝―称徳」を、多治比氏や長屋王、橘諸兄、吉備真備、玄昉、道鏡らと共同で支えた「大伴氏」でしたが、「称徳で九州倭国の皇統が断絶し、光仁(天智の孫)、桓武が復権したために、最終的に今度は、天智ー藤原系の前に没落することになるのです」。

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jjf********さん

2014/8/1501:47:27

大伴金村が大連から失脚した後、確かに朝廷で権力を振るうほどの高位にはついていませんが、息子の糠手は崇峻天皇の側近であり、曾孫の長徳は大化の改新で蘇我倉山田石川麻呂の後の右大臣になり、とそれなりの地位にいます。はっきりと分かりませんが、失脚したとはいえ、大伴氏が滅亡したわけではなく、また、物部氏滅亡後は臣系の蘇我氏や阿倍氏が力を持つ中で天皇家直属家臣とされる連系の家の中では最高位を保っていたと思われます。そして、その扱いは大化の改新後も同じです。

天武天皇云々は壬申の乱における上述の長徳の弟である馬来田や吹負の活躍を指していると思います。ただ、その後の扱いはこの2名より長徳の息子(いわば本家)の御行や安麻呂が高位についていますがこれは単に壬申の乱の功績というより大伴氏のもともとの家柄によるものと考えられます。この時点で藤原不比等とどっちが上だったかというと地位も家柄も大伴氏の方が圧倒的に上です。

藤原氏は奈良時代から平安時代初期にかけて、後宮政策を基本として藤原氏の地位を高めていくとともに、露骨な他氏排斥を行っています。長屋王の変から始まり、大伴氏の主要人物は軒並みそのターゲットにされて、応天門の変で止めを刺されます。逆に言えば、大伴氏は藤原氏にとってそれだけ目障りな存在であったのであり、それは中臣氏がただの連家であったのに対して大伴氏は大連という格上の家柄であったことに由来していると考えられます。

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