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於大が信虎の子を今川で作ったのが家康である。 信虎の菩提寺が家康の菩提寺とな...

osi********さん

2014/9/1904:57:25

於大が信虎の子を今川で作ったのが家康である。
信虎の菩提寺が家康の菩提寺となってる甲府のS寺であり、ここの修行僧で家康の孫の廓山が家康の命で伝通院の住職となった。

したがって家康と信玄は親子ではなくまぎれもない兄弟である。

信虎が今川時代にここへきた松平元康が病死し当時武田水軍の城である久能山に埋葬している。他を擁立した松平清康の首は阿倍氏によって岡崎で叩ききられ信玄への手土産とされている。

江戸幕府は水野、井伊など三河衆との協力により武田二十四将が死んだことにして長篠に墓石をつくり、それらは旗本2000騎として譜代の中心となられた。

得川世良田家康という名で影武者が暗躍して死として大阪南宗寺に墓石をつくり、天下を信恒家康に譲り江戸幕府を開いてから徳川に成ったのが真実である。

従って信玄と家康は親子ではなく兄弟である。そしてこれを画策したのは縁者である朝廷と足利義照と家康に成った信虎の子であった。

これで東照宮の3つの説明がつくが家康は秀忠の親ではなく諏訪の保科井上党である。従って秀忠の妹が家康の子である徳川義直に嫁ぐ。この家が明治の井上子爵家である。、

補足伝通院の於大の遺品に敷かれた紋は家康と於大の生家家紋である剣花菱があり、紀州東照宮にこの剣花紋の家康の最初の普段着物が保存されている。幼名武千代であり武田の子の証である。武田中名は武松丸である。水戸初代藩主武田信義(吉)は水戸光圀の父である。

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nek********さん

2014/9/1911:48:54

村岡素一郎の説を引用してるのだろうが、時系列・人物が錯綜していて意味不明な自説になっているし、補足は何を言いたいのかわからん

徳川光圀が生誕したのは寛永5年(1628年)
武田信吉が死去したのは慶長8年(1603年)
(家康の甥にあたる)松平信吉が死去したのは元和6年(1620年)

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