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北条氏が秀吉に従わず、徹底抗戦で滅亡の道を選んだのは、今川や武田を滅ぼした信...

rus********さん

2014/9/2420:27:24

北条氏が秀吉に従わず、徹底抗戦で滅亡の道を選んだのは、今川や武田を滅ぼした信長の後継者だからですか? それとも、関東を狙っていた家康の陰謀によるものでしょうか?

補足私は秀吉の小田原攻めは、関東に狙いを付けていた家康の陰謀だと思います(*^o^*)

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ベストアンサーに選ばれた回答

mil********さん

2014/9/2501:23:14

北条家は秀吉に臣従することを決めていました。ちなみに織田信長に対しても、北条家は同盟の申し入れをし、事実上の臣従をしていました。秀吉は北条家の臣従を受け入れた振りをして、言いがかりをつけて小田原遠征を行い、朝鮮出兵をも上回る20万という大軍で攻めよせて北条家を滅亡させたのです。
これにはれっきとした証拠があります。

北条家の同盟者であり、当主・北条氏直の舅でもある徳川家康の仲介により、天正十六年(1588年)に氏直の叔父・氏規が上洛したことで、北条家も秀吉への臣従を明らかにしました。翌年の十二月には氏直の父で事実上の当主でもあった氏政が上洛することになっていましたが、直前の十一月にいわゆる名胡桃城事件が起こりました。
この事件を北条家によるものと考える人が多いのですが、むしろこれが秀吉の陰謀だったのでしょう。同年十月、秀吉は長束正家に戦兵糧、軍馬、金銭の準備命令、上杉景勝には後北条家討伐準備の命令を書状で出しています。つまり秀吉は臣従如何にかかわらず、北条家討伐を計画していたのです。その理由は秀吉にとって最大の仮想敵たる徳川家康から自国領を取り上げたうえで、遠国に追いやりたかったのです。さらに家康にとって有力な同盟相手である北条家を滅ぼせれば、絵に描いたような一石二鳥だったからです。
そして最大の利益享受者が、名胡桃城事件の実行犯であった真田昌幸、その影にいただろう上杉景勝です。真田は父祖伝来と称する上田城を確保出来、家康のくびきからも脱することが出来たわけです。景勝のほうは上杉家の家督簒奪、祖父殺し甥殺しという自分の不義を暴き立てられる心配が無くなったからです。
この他に石田三成が懇意にしていた佐竹家など、関東における北条家の敵対勢力が秀吉に早くから通じていたことからも、仮に戦わずに降伏したとしても結果は同じだったでしょう。むしろ数年の籠城が可能だったにもかかわらず、早期に小田原城を開城したことで家臣、領民の命と財産を守ったことは評価されるべきであります。無謀な戦いで天下の名城を丸焼けにし、多くの死者を出し、貴重な文物も消失させた豊臣秀頼や真田信繁のほうがよほど愚かといえるのです。

家康が関東の領地を狙っていた、という説ですが、当時の関東は石高が大きいとはいえそれは検地上でのこと。戦が繰り返されることで人的資源は減少、干ばつなど自然災害も頻繁に起こり、生産性は決して高くありませんでした。しかも遠方ということは、それだけ都に行くのにお金と時間がかかることになります。
馴染みのある領地を捨ててまで、わざわざ家康が狙うとも思えません。
そして大事な同盟相手である北条家の滅亡を、家康が望んでいたとも考えられないのです。

質問した人からのコメント

2014/9/25 22:02:34

成功 私は北条を滅亡に追いやったのは家康だと思います
なぜなら北条滅亡て一番利益を得たのは家康だからです

ベストアンサー以外の回答

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2014/9/2511:15:54

質問者さんの文中にあることは、関係ないと思います。

北条家は、5代にわたって関東を支配してきた覇者です。たくさんの血を流して手に入れた土地を、成り上がり者の関白に簡単に明け渡したくなかったはずです。

北条家は、のらりくらりと先延ばしにして、その間に、防備を備えつつ、適当なところで恭順して、有利な条件で和睦したいと考えていたのではないでしょうか?

北条方の山中城や、八王子城などが、大改修されたのもこのころです。和戦両極で備えていたように思います。

そんな折、沼田城代の猪俣某が、秀吉に臣従していた真田家の名胡桃城を奪い取ってしまった。

秀吉にすれば、恰好な口実を得たと言えます。

池波正太郎氏の「真田太平記」などでは、これは、秀吉の陰謀だなどといってますが、実際は、猪俣の暴走だったと思います。

もしかしたら、真田のほうから挑発するような行為はあったかもしれません。

真田もせっかく、手に入れた沼田を北条方に取られてしまって取り返したくて仕方なかったでしょうから。

また、我々は、結果を知っているので、なんで従わなかったのか?といいますが、当時の情勢からすると、北条家には勝算があったのかもしれませんね。

当時、島津や、徳川も臣従して間もなく、秀吉がまごまごしてたら裏切るかもしれませんし、奥州の伊達や最上も、秀吉に従ってません。

伊達と北条は同盟国でしたし、東国列強同盟なんか目論んでたかもしれませんね。

秀吉はそれを防ぐためにも、早く開戦に踏み切りたかったかでしょうけどね。

bir********さん

2014/9/2507:16:08

足利幕府は、京都を本拠地としたが、東日本、関東や
東北に反乱気運おおいので、関東に副将軍の地位に
あたる関東公方を置いて統治したが、同幕府の衰退
とともに関東は、関東公方ないしは、関東公方を
カイライとした関東管領が仕切る日本とは独立した
ような状態となった。関東が、そんなだから、
関東管領の地位は諸大名ほしがり長尾景虎が
上杉謙信と改名し関東管領の地位を得たのは、
関東~東日本の制覇を目指したから。
日本は別に統一せんでも良い関東は関東で独立
してんだ、という気持ち、が関東では強かったので
秀吉が天下統一を しようと言っても後北条には
、あまり聴く耳が少なかった。

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