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罪人としての人間

kimikoさん

2007/11/2819:29:05

罪人としての人間

聖書の精読を始めましたが、自分の感想を述べましょう。聖書は人間を神から反逆したものであり、神に帰って行くべき存在としています。聖書に罪が支払う報酬は死ですと書いてありますように、宇宙の大真理、法則である神の戒めに背いた結果は、死でした。聖書は人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっておりと述べています。人間は罪のために神から離反した存在であり、失われた存在となりました。人間は神との関係を自ら破壊したのです。ゆえに、聖書においては、救いとは神と人間との関係の回復を意味をしています。
キリスト教の中心問題は、人間の罪、もしくは罪性を明らかにし、かつその罪の救いを教えようとするにある。このことは、人間を倫理的責任のある主体として規定することを意味する。と同時にそれからの救いは、人間をその責任を負うことのできない主体として規定する。この二つの矛盾する事柄が、一つに結合しているところに、キリスト教の独自性がある。
聖書は罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト、イエスによる永遠の命なのですと述べています。この真理を知るものは、神以外の誰をも恐れることはありません。というふうに私は考えています。人間は本当に罪人でしょうか、それは性悪説なのでしょうか。キリスト教信者の方、キリスト教信者でない方、ご意見や感想などをお願いします

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got********さん

2007/11/2820:04:40

人間は絶対者によって創られた相対的存在ということで性悪説をとります。

併しキリストの十字架の贖いによって原罪が許され、神の子の兄弟として、

やがて神より「良し」と言われる人類に成長していくのです。

今は戦争やテロ略奪などするどうしようもない人間だがそのうちに大回心して

神の意向に適うものとなると信じています。

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juj********さん

2007/11/3002:51:11

キリスト教の罪は、世間一般で言われる罪とは、少し意味が違います。
神様に心を向けることが正しいこととされますが、人間はこのことを忘れがちです。
神様という的に心を向けて生きることが正しいが、生きるうえでついつい、ほかの事へ心が向きます。
神様という的を外れて生きる。的外れな生き方をする。これが、キリスト教でいうところの罪です。
クリスチャンは、毎日曜日神様に心をむけて一週間すごしたかを反省し、これからの一週間神に心をむけてすごすよう誓います。
それでも、私の場合ついつい神様を忘れている自分に気付かされます。
神様を知るほどに、罪の深さがわかってくるものだと思います。
これだけだと、一生懸命神を知れば知るほど、自分の罪の大きさを知って救いがないようですが。
同時に、イエス様の十字架の救いによって、すでに罪から救われていることも知っています。
自分の罪を知る=救いの恵みの大きさを知ることになるので感謝です。
この信仰を性悪説に基づいたものと言えるのかどうか。私には疑問です。というか、性悪説とは違うと思います。

『ここに愛がある~ ここに愛がある~ わたしたちの罪のためにここに愛がある~』
イエス様は、健康な人(正しい人)をっ救うためではなく、病人(罪人)を救うためにやってきた。感謝です。

白生雲さん

編集あり2007/11/2918:50:39

人は何処から来て、どの様に生き、何処へ逝くのかを示すのが宗教でしょうね。
当然、人は一人では生まれず、一人では幸せに、生きて行くことは出来ません。

創世記は、この在り方を語っていますね、罪の実を奨めたのは女性イブですね。
神の言葉を忘れた人、蛇の誘惑に負けた女、善悪の知識を身に付けた者です。

女性が身籠もり、二つ身になり、愛し子を育てて、人類の繁栄が始まりました。
男性の選択は誘惑の罠、妊娠は実りの成果、子への喜びと、愛を教えたイブ。

どうです、母の愛は他との区別で、心の源です、新たな誕生は死への出発です。
健やかな一生、命の全うは、人々にとって、善か悪かの選択で始まり終わります。

この源は愛であり、人と人の間に持ち込まれ、罪となり、楽園を追放されました。
神の楽園は愛です、愛を定義すると、遠のいてしまうのも愛で、遥か彼方ですね。

追放された者の末裔達、もう留まることは出来ません、旧約は書き足されます。
人々は壮大な喧噪で、新約聖書を選択しましたが、行き詰まってしまった現実。

usa********さん

2007/11/2908:38:41

この前の回答者さんへ

キリスト教の教義はいたって簡単です。「イエスを神が遣わされた救い主である」と信じるだけです。

「新しい宗教ができる」、「新しい宗教に期待する」という方がここのカテでもおられますが
イエスを通さなければ、神に近づけないのです。イエスご自身がそうおっしゃっておられます。

「ひと」が作り出す「宗教」や「神」はとても危険です。
なぜなら、「人」が作りだしたのものは、人の都合にあわせて作られていて
勝手なイメージで「神」をつくりあげてしまうからです。

創造主である「神」は完璧ですが、人が作った神が「完璧」なわけがありません。
「神」でないものを「神」と呼んでいるのですから。

初めに「神」があるのです。「神」が「人」のあとから、ついてくるのはおかしな話です。
聖書の中に、真理があります。

編集あり2007/12/413:41:57

罪とは何に対しての罪なのでしょうか?私達は自分の意志を理解する、理解しないにかかわらず、
其処に生まれ生きております。何故生れる事が罪なのか・存在が罪なのか私は理解できません。
生まれてきた事・生きている事が総て罪なら、誕生の意味は何だと思いますか?

誕生以前に罪を背負い、誕生して生きる事により又罪を重ね、何処まで、又何処に行けば罪は消えるのか
其の罪の許しを、何処で誰に求めればよいのか?果たして請えば、其のことで罪は何を持って消えたと証明できるのか?
生と死を繰り返し永遠に罪が消えない人間なら、人間の生命の存在の意味は無くなってしまうと思います。
果たして此の宇宙空間で・神や仏といわれる者はその様な罪深い人間を存在させる必要があるのでしょうか?

他の生命体から見れば、人間は自分勝手に振る舞い、生まれた時から他の生命を当然の様に糧にし生きて行きます。
魚や野菜、他の動物の肉や穀物、あらゆる生命を犠牲にする事は、人間の存在自体が悪の様に思えるでしょう。
人間一人が寿命を全うするするまでに、天文学的な数字の他の命を犠牲にするはずです。

その様な悪の権現の人間が何故地上に誕生するのか、其処には誕生するべき深い訳が在ると思います。
此の宇宙空間の神や仏又は、此の宇宙を創作し発展させているエネルギーは、其処に人間が必要だから
存在させるのだと思います。木や草や水も風も太陽も月も総ての無機物・有機の生物にいたるまで。

何もかもが総て許された存在なのだと思います。思想的にしても悪と善・陰と陽・総てが相対的に其処に存在します。
何故相対する物が存在するのか?其れは比較することにより学ぶ事が、判断が出来るように成っているのだと思います。
恐竜は、存在すべき条件に適応できない生命体であるから消滅したのです。学習し危機からの回避が出来ない
思考しか持っていなかった事になります。

生命が存続するには其れなりに条件が必要とされるのです。
人間には、学習する能力が備わっています、其処で如何考え、何処に自分の意志で向かおうとするのか
試されているのかもしれません。しかし我々一人ひとりには自分で考える意思を与えられているのだから、
自分の意志で其処に向かうべきだと思います。許しを請いながら生きて行こうと思えばその様な人生の選択しかありません。

私はこの様な現実の中に生まれ、自由な意志を授かっているので善悪の判断を自分で選び、もしまっちがったとしても
軌道を自分で修正して生きて行こうと思います。宇宙は修正する其れだけの時間を、我々にくれるはずです。
他のものと調和した人間として、人間として何をしなければいけないのかを目標に、主体的に生きて行きたい。

大勢の無軌道な人間が増えすぎて地球の崩壊を招いたとしても、其れは人間が愚かで招いた結果でしかない。
恐竜と同じ運命を辿るのであれば其れだけの能力しか人間には無いのでしょう。
自分勝手な利己主義のその様な生物は此の宇宙には必要ないと思います。そうならない為には如何すれば良いのか?
其の答えも人間は知っているはずです。此の地球上で人間としての責任を持つべきだと思います。

他の生命を自由に出来る”等と傲慢な生き方をすれば、そのまま自分達に帰ってくると思います。
やがて自分達の生命が脅かされるでしょう。神や仏の宗教的教義経典は私には解りません?

しかし神や仏は、人間の代表として我々を存続させる為に、人間としてどう生きるべきなのか?説いてくれていると思います。
愚かな人間だから戒律や罰等の恐れ・戒めを説いて早く軌道を修正することを気付かせてくれているのかも知れません?
宗教は否定しません。宗教は大切な物・学問として学習して・生活の中で生かすべき物だと思います。
唯、凡人の私には難しいのも事実です。難解な教義がもっと解り易ければ生活の中で生したいとと思うのですが。
人間としての教えである宗教は、日本国民の生活から離れすぎのように思います。

何故離れたのかは、余りにも既成宗教が膨大に膨れ上がり、そして広がり、其の事により人間の思考が
多種の宗教の中での選択の基準に迷い始めたのかも知れません。価値にも裏切られたのでしょう。
其の事が不信を呼び、宗教の意味を知る前に絶望したのかもしれません。

今、地球規模の人種や国を超えた、思想・哲学・宗教が現れる可能性は大だと思います。
日本国民といわず、総ての人間が今、考えなければいけない岐路に差し掛かったと思います。
何教と囚われる時代は、もう過去に過ぎたのかもしれないですね。囚われたら見えなくなるのでしょう。

mi_********さん

2007/11/2821:17:46

性悪説では、その創造主である神も悪になってしまいますから、違います。

一番最後に創造された人間を、最初に創られた天使以降全ての被造物の主管主とするため、人間に責任を与えそれを
果たしたあかつきには神に並ぶ主管主とする予定でしたが、人間が神の戒めを守らず、与えられた責任を果たさなかった為、
罪を犯すこととなってしまいました。人間の犯した罪は、愛と生命の源となるべき血統を汚す大罪であったため、原罪と
なったのです。

人間の責任で犯した罪は、人間の責任で贖わなければなりません。人間の救い主として、キリストが来られました。
しかし、イエスは、そのキリストとしての価値を知らない民衆によって、十字架にかけられ、使命を全て果たすことが
出来ませんでした。「わたしは、また来る。」と言い残して天に昇ったキリストを待つ再臨思想がこうして生まれます。

黙示録にも有るように、キリストが再臨する時代が現代です。既に、再臨のキリスト(イエスではありません)を迎えた
とする宗教もあります。キリストによらなければ、原罪はぬぐえないので、全ての人が、キリストを受け入れる必要が
あるのです。

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