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松平忠吉(家康四男)の死因について 「忠吉は関ヶ原の戦いの怪我がもとで死んだ」...

f27********さん

2014/10/1118:21:09

松平忠吉(家康四男)の死因について

「忠吉は関ヶ原の戦いの怪我がもとで死んだ」という書き込みが散見されるので、「?」と思いWikiをみたら確かにそう書いてありました しかし忠吉が世を去ったのは戦いから7年も後ですし、過去に「関ヶ原の戦いの怪我がもとで…」という記述もまともな本では見た記憶がありません
井伊直政ならわかりますが…(それも負傷後十ヶ月後で、その間精力的に戦後処理にあたっている)

実際忠吉の死因は何だったんでしょうか?
「弾丸が体内に残っていて」という回答もみた気がしますが、何か出典があれば教えてください

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q73********さん

2014/10/1119:59:07

「武徳編年修成」や「慶長見聞録案紙」などでは、松平忠吉の死因は「瘡疾」、つまりできものや腫れ物になってます。

この「瘡」と言うのがなかなか厄介な代物で、当時の記録に結構多く記載されているのに関わらず原因不明の場合がほとんど。
例えば、このカテでは梅毒で死んだ事で有名な結城秀康も公式記録では「瘡病」が死因です。

松平忠吉の死に至る症状が出てくるのは慶長9年(1604年)9月に病気療養の為、温泉に湯治に行ってからですが、それ以前には病気の記録はありません。
翌慶長10年12月10日には一時危篤状態に陥って滝野為伯の投薬で蘇生、為伯は家康によって忠吉付きの主治医になったと言う逸話があります。
それから忠吉の症状は一進一退、慶長12年(1607)3月5日、28歳の若さで亡くなりました。

前述したように忠吉の死因は原因不明。
鉄砲傷による瘡疾患も考えられなくは無いですが、発症まで余りに時間がかかりすぎ。
兄・結城秀康のように梅毒による疾患と言う説もありますが信憑性がイマイチ。
個人的に武田信吉と松平忠吉は家康の息子の中でも「ひ弱」と言うイメージを抱いているので、単純に「病死」で良いのではないかと思います。

  • q73********さん

    2014/10/1121:11:40

    >benkei1141さんへ

    「下野守殿(忠吉)御煩危急、辰の刻より午刻迄、偏へに死人の如し。御口中へ御薬を入れ午刻御蘇生」(慶長見聞録案紙)
    「逐日神心悩乱せられ既に今辰刻絶入ありしが、良薬の効を以て午刻蘇生し給ふ」(武徳編年集成)
    この記録は慶長10年12月10日、忠吉が一時的に危篤状態に陥った時のものです。
    ご存知のように井伊直政は慶長7年2月1日に亡くなっているので、この時点で既に忠吉は直政より3年も長生きしている事になる。
    ここまで離れていたら普通同時期に死んだとは言いません。

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質問した人からのコメント

2014/10/11 23:42:13

驚く 詳細に有難うございますm(__)

正確にはわからないが、普通に「病死」でよさそうですね
たしか関ヶ原での怪我もたいしたものではなかったような…
「そのときの怪我がもとで…」は、「島津最強論者」が言い出して、「Wiki」まで編集したんでしょうかね

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

2014/10/1119:02:09

あれ?
舅、婿ともほとんど、同時期の死と、捉えていましたが、時間差のあるそれこそ、確かな、「出典」と、やらでも?

直政は、銃創を抱えながら、和睦に奔走。
島津とか、めんどくさいとこばかり。
で、結局、どこかで、菌でも拾って、破傷風で、七転八倒の末、やっと、死ねたと、思っていました。
婿も、同様だったと。

てか、大御所好き過ぎる、井伊の赤鬼、かなりガチのホモですが、徳川からの婿に手ぇ、出してないですよね。

戦国のホモは、親子丼とか、自分の使い古しを娘に与えたとか、ラブレター保存とか、楽しい暴露とか、複雑過ぎます。

いくら、大御所の面影あっても、婿に手ェ出したら、鬼畜いいとこですね。

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