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武田勝頼は、どの時点で織田信長に攻められるようになったのですか。 勝頼が当主...

dyw********さん

2014/11/100:30:30

武田勝頼は、どの時点で織田信長に攻められるようになったのですか。
勝頼が当主になったころは、織田信長の領地に攻め込んで東美濃の砦などを落としているらしいです。

それが、攻守ところをかえて守勢に回るようになったのはやっぱり長篠なのですか?
長篠の後も、勝頼は積極的な軍事行動を行っていたという説もあるようです。
長篠以外のほかのところで、転換点を向かえたのですか。

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f27********さん

2014/11/101:28:44

武田が守勢に回ったのは、長篠の戦いからに違いないです

この敗戦によって、三河からは武田の勢力は一掃されますし、直後には東濃の岩村城も救援を受けられなくなり落城します

しかし、遠江では徳川方優勢ながらも、まだ武田は勢力を保ってましたし、織田は西国や北陸への出兵で、武田領まで侵攻する余裕はありませんでした

転機となったのは、天正9(1581)年の「高天神城落城」でしょう
これによって、遠江からも武田勢力は駆逐されてしまいます

実際に武田領の信濃、駿河、甲斐への侵攻のきっかけとなったのは、天正10(1582)年の木曽義政の寝返りでしょう
これを討伐しようとした武田勢が「鳥居峠の戦い」で惨敗し、一気に大規模な侵攻を招き武田家はあっけなく滅亡してしまうわけです

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jic********さん

2014/11/112:11:21

武田と織田は信玄最晩年に断交して戦争状態になって、以来ずっと抗争状態にはあったのですが、信長も多方面で戦争していましたから、武田領への本格的侵攻もずっとありませんでしたね。

契機となったのは天正8年の石山戦争の集結でなかったでしょうか。これを契機に竹田川でも翌年に新府城を築城し防衛体制を整備し、天正10年には織田・徳川勢の本格的侵攻に至るわけですし。

川崎さん

2014/11/102:51:30

武田と織田との軍事衝突を羅列して考察します。

勝頼の代になってからは、東美濃の城を十数個落とすなど勝頼の攻勢が続きます。信長は城を救おうと数万の大軍で武田軍に迫りますが、武田重臣・山県昌景に敗れます。
この時、武田軍の拠点となったのが東美濃にある岩村城です。

信玄の死から長篠の戦いまでの武田と織田との軍事衝突はこれぐらいです。

そして長篠の戦いの後、前年に敗れた東美濃に織田信忠軍が侵攻し、岩村城を包囲します。
半年ほどの戦いの後、岩村城は陥落し東美濃は織田の物となります。

この後、武田と織田との軍事衝突は武田征伐まで見られません。つまり、質問者様のお見込みのとおり、長篠の戦いまでは武田が攻めており、長篠の戦いの後は攻守が入れ替わり織田が攻めております。

武田に積極的な軍事行動が見られるのは、東海道での対徳川戦線や関東での対北条戦線です。
対織田ではむしろ控えめです。武田は織田との関係改善を目指していたようで、積極的に織田との争うことせず、むしろ控えていたと推察されます。

inu********さん

2014/11/101:50:12

個々の戦いというより北条との同盟が無くなったのが大きいのでは?

上杉景勝の示した和平案を蹴って、北条と同盟を組み、上杉謙信の後継者に
北条からの養子が納まっていれば上杉・北条&武田の連合は織田・徳川の
連合軍に対抗できたはずです。

勢力としては北条の下に組み敷かれるかたちになったかもしれませんが
滅びることはなかったのではないかと思います。

gen********さん

2014/11/101:44:20

奥平信昌の長篠城帰参と武田家の奪還ですね。守衛と言えば勝頼は徐々に美濃から失っていますので、出先(長篠以西)は既に苦しいは苦しいのです。

本願寺が治まりつつあったこの時に長篠が寝返った。そこで信長は出陣を決めます。

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