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三好長慶って何で足利義輝を廃しなかったでしょうか? 足利義輝という邪魔をする...

kam********さん

2015/4/914:55:36

三好長慶って何で足利義輝を廃しなかったでしょうか?
足利義輝という邪魔をする将軍より、傀儡として扱いやすい足利義栄のような人を将軍にしたほうがよかったのではないですか?

補足そのような経緯でどうやって三好三人衆と松永久秀は足利義栄を擁立できたのでしょうか?義栄が元服したからでしょうか?

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zun********さん

2015/4/918:01:52

足利義栄は、父で堺公方だった足利義維とともに阿波にいたようですが、1555年に義維は妻の実家である大内氏に身を寄せています。

義維を保護してくれていた細川持隆が、三好に殺された1553年の「勝瑞事件」が原因で、義維は三好氏への協力を拒んだとみていいでしょう。

同年に三好氏は、和睦していた足利義輝との抗争を再燃させており、義輝を京から追ったのに、うってつけの将軍候補を他国に奔らせてしまった、というのが実態のようです。

では長慶が、はじめから義輝と和睦せずに、代わりの将軍を立てていればよかったかというと、そうとばかりも言えません。
1550年ごろに、足利義栄は元服していたかどうかという年齢で、それよりは三好氏と関係の深い義維を将軍に立てる方が自然です。

しかし壮年を過ぎた義維を将軍にして、傀儡に出来るかという問題があります。
義維はもともと、長慶の父 元長が擁立していた将軍候補で、それが元長の子に傀儡とされて、いい気がするとは思いません。

義維以外の将軍候補を連れてこれたとしても、その後は義維を保護している細川持隆に、反三好の名分を与えることにもなります。

  • zun********さん

    2015/4/1000:25:31

    足利義維が身を寄せた大内氏は、すぐに毛利氏に滅ぼされます。なので時間はかかりますが、1563年には阿波呼び戻されます。
    その間の三好政権は、将軍ぬきの政治を志向していますが、結局は1558年に義輝と妥協しています、

    すると、義輝の幕府政治再興が徐々に表面化してきます。
    1562年の反三好勢力による包囲攻撃を凌いだあたりで、三好氏は「将軍を抱えざるを得ないとしても、義輝ではまずい」という思いを強めたと思います。

    ここに三好氏と義維・義栄の利害関係が修復され、1563年の呼び戻しに至ったかと。

    ただ、三好長慶は一応、義輝排除論を抑制していたとされ、義維・義栄を阿波に連れ戻したのは、後に義輝を暗殺する三人衆・松永の意向がはいっているかもしれません。

    長慶は衰弱してきた時期でもあり、一貫性が欠けて見えるのも、そのせいかもしれません。

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質問した人からのコメント

2015/4/10 00:30:39

丁寧なご説明ありがとうございました。おかげで納得できました。

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