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ドビュッシーの前奏曲集第2巻の「花火」の一番最後、フランス国歌がはるかかなた...

zaz********さん

2015/7/2114:00:02

ドビュッシーの前奏曲集第2巻の「花火」の一番最後、フランス国歌がはるかかなたに消え入るように鳴り響きますが、これはどういう意図だと思われますか?

やはり、

「俺はフランス人なんだよ!」

という意思を示したかったんでしょうか?

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2015/7/2200:15:11

微妙に違うと思います。そんなにわかりやすい音楽じゃないと思います。
確かにドビュッシーは愛国的な人だったと思いますが、パリが嫌いになったり、自分がやらかしたトラブルから居心地が悪くなって、何度かフランスから逃げだしています。
なので、どちらかというと「おれってやっぱりフランス人なんだよなあ」という、肯定と否定の気持ちが渾然一体となった、複雑な感情を回想した表現ではないかと思っています。

ドビュッシーは、逃げ出してはパリに戻ってくるという行動を取るのが特徴で、この曲集も愛の逃避行?から戻ってきて作ったものですからね。
なお、最後に言いたいことを回想するのは、ショパンの影響です。標題の花火も、花火そのものを描写したのではなく、花火の印象を描いたと捉えるべきでしょう。日本文化の侘び寂びに通じるもの(フランス語でいうとエスプリ)だと思います。
ということで、ドビュッシーの楽曲は、楽譜に書いてあることをそのままストレートにとらえてはいけないように思います。一筋縄ではいかない人です。

質問した人からのコメント

2015/7/25 19:33:42

みなさんありがとうございました。それぞれ正解の部分がると感じます。ただ、日本のわびさびを好んだというのはどうも信じられるので、この、消え入りそうなマルセイエーズは、アトモスフェア引用であった意図が一番強いように思えます。

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ora********さん

2015/7/2321:06:37

作曲家の作品に対する意図を解するのに、音楽理論によるものと標題性によるものとが古くから今に至るまで試み続けられている。実際のところ楽譜を理論的に解釈することは出来ても、それ以外の精神的なもの、心理的なもの、文学的なものへの置換的解釈は、正確には困難と思われる。それどころか、作曲家が表題を付けていないにも関わらず、後世の者が勝手にそれらしくニックネームを当てている例も多々ある。

この Claude DebussyのPréludes BookⅡ No. 12 Feux d'artifice や
"En blanc et noir" for two pianos No. 2 Lent. Sombre に見られる
"La Marseillaise" の旋律の引用も、当時の人々の内や作曲家の周囲の一部にインスピレーションを与えるものであったかもしれないが、あくまでも想像を呼ぶ程度のものなのかもしれない。

"En blanc et noir" No. 2 Lent. Sombre /
https://www.youtube.com/watch?v=0TnHJIZ5Nmc
(10:31~ 第2ピアノのメロディ)

以上、吉田進著「ラ・マルセイエーズ物語」中公新書を参考とした。他に、色々な作曲家達のエピソードも登場するので面白く読める。一読を願う。

min********さん

2015/7/2122:10:39

やはり、ということは、質問者さんに「やはり」と言わせた原本があるのですよね。

私も「やはり」以下はまったく同じ思いです。たしかCDの解説文だと思います。

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