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富岡製糸場について

Allyさん

2015/8/413:44:35

富岡製糸場について

富岡製糸場の、

・歴史
・どのような役割を果たしたか
・世界遺産になった理由

について詳しく教えて下さい。

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ind********さん

2015/8/414:36:51

歴史については、wikipedia富岡製糸場の歴史の欄を見るとよいでしょう。設立から現代の所有者に至るまでの変遷や出来事が記されています。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E8%A3%BD%E7%B3%B8%...

役割は明治時代の日本の最大の輸出品である生糸の製産体制を築いたこと。江戸時代も日本各地で生糸製産は行われてきましたが、農家の副業的なもので家内制手工業であったため大量には作れませんでした。それを西洋技術を導入して工場化し、専属の従業員(女工)を雇うことで大量生産と安定供給を実現しました。女工たちは全国から集められ、一人前になった後に帰郷して地方で作られた製糸場で指導的役割を果たし、製糸業を全国展開させた養成所でもありました。
急速に軍備を拡張した日本を支えたのは製糸業であり、「生糸が軍艦を生む(買う)」とまで言われました。その中心で筆頭が富岡製糸場です。

世界遺産に登録された理由は、
①近代工業化された製糸工場が当時の姿のまま残されている例は世界的にも珍しい→戦後に化学繊維が普及すると多くの工場は化繊用に改修改築され、さらに繊維不況で倒産が相次ぎ工場自体が残りにくかった
②木骨煉瓦造り(レンガ壁だが柱や梁は木造の日本式棟上げで屋根も瓦葺き)という和洋折衷の独自の建築様式が貴重→明治期に見られる擬洋風建築だが完成度が高い
③富岡で作られた絹は品質に優れ安い値段で輸出されたことで、ヨーロッパを中心にシルクファッションの大衆化に貢献した→同時期に世界的な蚕の病気が蔓延し、絹の故郷である中国も欧米の侵出による混乱で絹産業も衰退しる中、日本の養蚕技術も輸出され絹産業全体を活性化させた

また、世界遺産の正式名称は「富岡製糸場と絹産業関連遺産群」で、田島弥平宅・高山社跡・荒船風穴も合わせて登録されており、それらとの相互補完により価値が高まったこともあります。
④西洋技術の背景に日本独自の伝統文化を発展させている→江戸時代から続く伝統産業を活かしながらの近代化
かつて養蚕が盛んだった地域に残る天井裏で養蚕するため屋根に窓を設けた清涼育用の家屋は、明治時代に田島弥平によって考案されました(白川郷の合掌造り集落でも養蚕は行われており、建物としては江戸時代に既に存在していたが、そこでの養蚕は家屋の構造を後付け利用したもの)。田島弥平旧宅の様式は当時の一帯の集落名から島村式蚕室として普及し、現在同地域では櫓(やぐら)屋根、他の地域では高窓(たかまど)などと呼ばれています。
高山社跡は高山長五郎が考案した清温法という養蚕手法を開発した家屋兼研究施設。高山社は明治日本の基幹産業となった近代養蚕を全国に普及させた功績があります。高山社跡と呼ぶのは養蚕事業としての高山社の本社機能を移転し、後に高山家個人宅となったことによります。

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