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デカルトの「われ思う、故に我あり」とはどういう意味ですか?

dgy********さん

2008/2/1914:29:07

デカルトの「われ思う、故に我あり」とはどういう意味ですか?

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hir********さん

2008/2/2206:46:56

例えばあなたは今自分の部屋にいます。窓を開けてみてください。そこにはいつも見慣れた光景が広がっているはず、と思いますね。しかしその景色が絶対にそこにあると証明できますか?できません。例えば何か悪魔みたいなのがいて、あなたが窓を開けた瞬間にその景色を作ってるのかもしないという可能性を確実に否定することはできません。これは、ジムキャリーの「トゥルーマン・ショー」という映画を観ると解りやすいかもしれません。
さらに私があなたの部屋に行き、一緒に窓の外の景色を観たとして、全く同一のものを観ているということも証明できません。なぜなら例え色や形を言葉で説明しても、その色や形の定義自体が同じであるということを証明することができないからです。そう考えていくと、世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは一つもない、ということになります。あるように見えるけど、本当にあるのか?ということです。
しかし、ここでデカルトは気づきます。そのように考えている思いがあることは確かだ、と。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、間違いなく事実だ、ということになります。つまり世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。
だから、「われ思う、故に我あり」なのです。

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sgi********さん

2008/2/2006:32:58

tomochika88さん そのとおり、私もそう思います。人間やめちゃえばいいんです。
徹底してますね、ここまで徹底して考えた人は多分それまでいなかったんじゃないかと思いますね。



われ思う=その我(われ)を思うのはなにか→自己に内在する自我(じが)である。

故に=自我がそのように思うからこそ

我あり=私は間違いなく存在しているのだ。


ですね。
思っている(考えている私は、肉体でもありません、心でもありません、ただひとえに、考えているには自我なのです。
この自我は=考えているから自我は存在しているのです。)

自我は考えている
考えている=自我

なわけです。
どうしてここまで徹底して考えなくてはならなかったかというと、肉体はものを考えません。そんなものは頼りになりません。
心はいろんなことを空想します。でも、こころってなんですか、どこにあるのですか、あるような、ないようなそんなものは
確かなものじゃありません。肉体も心も全部否定してしまいました、でも、でもです。

そうやって少しでも確かじゃないものはどんどん切り捨てていって、最後に、自分を否定しても否定しても残ってしまうもの。

そうです、考えているこの自我、考えている私というのは何なのだろう、とデカルトは考えたわけです。
これだけは確かに自分自身以外の何者でもなく、自分じゃないか、と。

ああ、確かな自分があった、この考えている私の自我は考えている。確かな私がここにあった。ということですね。

考える自我=これぞ真理(真偽の判定をくだしてまちがいない真実、事実であるということ)

自我は脳みそのことではないので、脳と自我は別々の物と考えました。


こんなふうに、確かなことだけで物事を考え、理論的に物事を組み立ていく、学問をする姿勢には
この姿勢が大事なんだ。そういうことをデカルトは教えてくれているように思います。


デカルトは方法序説で、その精神をみちびくためにこんな4つの方法をしめしました


精神を導く4つの準則として

・・・私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと

・・・検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割すること

・・・もっとも単純なものからもっとも複雑なものの認識へと至り、先後のない事物の間に秩序を仮定すること

・・・最後に完全な列挙と、広汎な再検討をすること


これはみんなが正しいと言っていても、自分が正しいと判断したこともないものを、正しいなんて考えてはいけません。
ちゃんと自分で判断しなさいという事です。そのためにはこの4つの手順は踏みましょう。なのです。


そして、正しい判断、決断がつかないときはどうするか、そのときは、正しい決断ができるまで、黙りましょう。
でも、その間、正しい道徳によって暮らしましょう、というのが次ぎの3項目です

・・・自分の国の法律と習慣に従うこと。

・・・一度決心したことは断固かつ毅然として行うこと。

・・・つねに運命よりも自分に克つことにつとめ、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努力すること。


とま、こんなところで

mas********さん

2008/2/2003:14:33

デカルトは物事を考える際に、最も確かな知識を出発点にしようとしたのです。
例えば私たちの感覚は当てにならないので、不確かなものとして退けられます。

思索の末、彼は「考えている自分は疑いようがない」ということを発見したのです。
そのときの言葉が「われ思う、故に我あり」です。なぜなら疑うことは考えることに
他ならないからです。考えている自分は存在するから、デカルトはこの自分を出
発点に哲学を構築しようとしたのです。

思索の出発点に神様を選ばなかったことが、近代を切り開いたのです。

por********さん

2008/2/1919:29:12

私が何かを考えるためには少なくとも私が存在していなければならない、ということです。
「今日のごはん何にしよう」とか「あいつやたら機嫌いいけど、どうしたんだろう」とか思っているのに、そういうこと考えている当人(の心が)存在しない状況なんて、意味不明で想像すらできません。
だとすれば、私が何かに思いをめぐらせているならば、「考える私」はかならず存在している、と結論するのが妥当です。

「私が考えるのをやめてしまえば私は存在しなくなる」というようなミステリアスことを意味しているわけではありません。

tom********さん

2008/2/1918:36:48

「理性は常につきまとい、また現実と妄想にまたがることこれ必然」要は君が人間をやめればいいんです。

lep********さん

2008/2/1917:04:52

自身の存在を含め,あらゆるものを否定していった先に,それを考えているということだけは否定することができない。
つまり「自己の存在」について考えるということがそのまま「自己の存在証明」になっている。

てな様な事を言われた気が。

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