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真田家は真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信幸、真田信繁の時代は親子関係が良...

got********さん

2016/3/812:54:22

真田家は真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信幸、真田信繁の時代は親子関係が良好で小さい国衆の勢力で大名になる為になんとしても生き残る為に結束しましたが江戸時代からは仲が悪かったのは何故ですか。

信幸の孫の代から悪いんですよね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

rtj********さん

2016/3/813:10:52

信幸が家督相続のため伯父の娘をめとったのに、徳川の差し金で小松姫を正妻にして、もとの妻を格下げしたのが、はじまりですね。

真田家からしたら元の妻が正統ですから、家督はこちらのはずなのに、実際には小松姫の子が跡取りになりましたから。

もめますよ。

質問した人からのコメント

2016/3/12 22:47:28

ややこしいですね・・汗。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

tan********さん

2016/3/814:07:59

前の回答にあるように、信幸には正室と呼ばれる女性が二人いました。
一人は、伯父である真田信綱の娘。
もう一人は、本多忠勝の娘の小松殿です。

最初、信幸は信綱の娘を娶り、事実上の正室にしていました。
が、第一次上田合戦の後の政治的駆け引きの中で、小松殿を家康の養女とした上で娶ることとなってしまい、名目上とはいえ家康の娘を側室には出来なかったため、やむなく信綱の娘を側室に格下げしたんです。

その後
信綱の娘との間には長男の信吉が
小松殿との間には次男の信政が
それぞれ誕生しました。

やがて江戸時代に入り、信幸は信吉を上州沼田の城主とし、信政 ( と、別の側室の子である信重 ) には自分の領地である信州松代領からそれぞれ何万石かを与えて分家させました。
このときの信幸の考えが、信政を将来の松代藩主にしようと思って自分の手元近くに領地を与えたのか
それとも信吉を松代藩主にした後、沼田を治めてもらうための実地訓練として自分の手元近くの領地を与えたのか
など、様々な推測がされていますが真実は未だ判明しておりません。

が、沼田藩主だった長男の信吉は若くして亡くなり、信幸は信吉の長男であった熊之助に沼田を継がせたのですが、この熊之助も幼くして亡くなってしまいます。
熊之助の他に、信吉にはもう一人男子 ( 後の真田信利 ) がいたのですが、まだ数え年3歳だったことと側室が産んだ子供だったこともあって
信幸の裁定で、信政が沼田を治めることに決まります。

時は移り、1656年
90歳になった信幸は、ようやく幕府から隠居が認められたため、松代を信政に譲って隠居しました。
この時、沼田は22歳になっていた信利が治めることになります。
しかし2年後の1658年、松代を継いでいた信政が父に先立ち亡くなります。
信政には、側室 ( 小野お通の娘 ) との間に生まれた信就という長男がいましたが、この長男は家光の勘気を受けて後継ぎから外されており、次男から五男までの男子は早世。
残っていたのは、信政死去の前年に生まれた6男の幸道でした。
そこで、沼田の信利は、
「 父が亡くなった時に自分は幼少だからと沼田藩主になれなかった。 ならば、今回はその逆で、幸道はまだ赤ん坊だから、自分こそ松代の藩主になるべきだ 」
と、幕府に自分が松代藩主になれるよう訴えたんです。
ところが、信政が沼田から連れてきた家臣達は、信利の性格や考え方をよく知っていたため、信利の松代藩主就任に猛反対。
隠居するまで信幸に仕え、ひきつづき信政に使えていた松代の家臣達もそれに同調し、信利の松代藩主就任に反対したことから
沼田 VS 松代
と、言う対立が激化。
この後継ぎ問題は、隠居していた信幸が乗り出し、幸道の松代藩主相続を幕府内に運動したため、一応の決着がつき、信利の松代藩主就任は阻止されます。

でも、信利からしてみれば、どうにも納得できなかったようで。
それまで事実上一つだった真田家が、
松代真田家

沼田真田家
に、分裂してしまうことになったんです。

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