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関ヶ原の大谷吉継は真田幸村同様、 素晴らしい武将だと思いませんか。 他の西軍...

rir********さん

2016/3/2516:06:55

関ヶ原の大谷吉継は真田幸村同様、
素晴らしい武将だと思いませんか。
他の西軍武将は石田はじめ皆、逃げて
捕まり、斬首または島流し。
死を覚悟で戦ったのは大谷だけでは。

毛利も宇喜多も島津も小西もだらしない。

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ベストアンサーに選ばれた回答

2016/3/2812:08:34

korertouさんの、
「自分が親になって彼への評価は180度変わりましたねえ・・・」
という一文に、私も同感です、てゆうか、感銘しました。
子どものとき、戦国武将が自分で槍や刀を振り回して敵をなぎ倒すようなゲームをやっている時には想像すらしない、「この武将には、家族もいれば家臣もいるだろうに」という事実に、就職したり結婚したり子どもが出来たりしたときに、ハッと気づくんですよ。それがオトナになるっていうことで。
戦国大名というのは、企業経営者の一種であり、経営で利益を出す目的の第一は、従業員と家族の雇用と生活をなんとしても守ることである。これは誰の偉人伝を見ても必ず書いてあることですね。ギャンブル的な経営をやって会社を潰すのは、下の下のトップです。
戦国時代を語るときも、あんまり「義」とか「友情」とかいうのは、どうなんだろう、とつねづね思います。
大谷吉継が「石田三成 との友情に殉じた」という話は、少年マンガ的にはいいはなしですが。それは少年マンだだからで、彼が率いてる家臣たちも兵隊たちも、みんな人間なんだ、彼らに対する責任は、って視点はまったくない。これって、コドモだと思うんです。
大名が、個人の友情だか同情だかで、家臣や領民の迷惑を顧みなくてもいいもんか。最後まで家を守ろうとカッコ悪く逃げる者を「だらしない」とかいうのは、違うんじゃないでしょうか。戦争はスポーツではないし、関ヶ原は甲子園じゃないんだから。

だから、私は、大谷は「石田が勝てると思ったから味方した」と考えています。
大谷に限らず、みんな、勝つと思ったほうについたはずです。なるべく部下を戦死させない、家臣を路頭に迷わせない、だから負ける戦はしない、というのは、大名としての義務です。
しかし、結果をして負けたほうについた武将を「バカだったからだよ」で済ませるのは気の毒ではあります。なので「負けると分かっていたのに友情を重んじて・・・」といったような「伝説」を作ってあげるのが、敗者に対する日本人としての作法なのです。いわば「鎮魂の物語」です。それは、物語であって、事実ではありません、たぶん。
そして、運悪く負けたとしたら、何としても生き延びて他日を期す、負けたと判断した時点で撤収して被害を最小限に食い止める、無駄に家臣を死なせない。ここまで戦ったのだから潔く全滅しよう、なんて考え方は、単なるカッコつけです。つまり「損切り」できる勇気(失敗したと認めて撤収することは勇気です)があるかないかが、良い経営者の条件です。戦国大名とて、同じです。
大谷吉継について確かなのは「結果として死んだ」ということだけで、「死を覚悟して戦った」というのは、後世の物語作家の粉飾ではないか、と私は考えたいです。大谷だって「家臣と家族を生かせよう」と考えていなかったはずはない、と思いたいです、でないと大谷に気の毒です、むしろ。

  • 質問者

    rir********さん

    2016/3/2815:13:50

    ご回答ありがとうございました。
    確かに武将は武士以上に領地全体の
    経営という面も大きかったのは
    間違いないようですね。

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img********さん

2016/3/2810:21:56

>「関ヶ原の」大谷吉継

とピンポイントでされていますので

「関ケ原」の大谷吉継は三成書状や吉川広家書状などで、戦意の低さが書かれています

秀秋が松尾山城へ押し入った時などは後退してしまうのではないだろうかと思われていたようです

ですから死を覚悟して戦ったと言うより、逃げられなかった&逃げる隙さえなかったの方かも

私も「三成との友誼の為に命を懸けた」とは史料で確認出来ないので、思っていない派ですね

しかし吉継が首謀者とも思っていません

「当代記」で宇喜多騒動を原因に持ってこられますが、秀吉生前に裁定された「蒲生騒動」と比較しても、宇喜多秀家への裁定が「甘い」からです

秀家に「お咎めなし」(蒲生秀行は幼少の為に成敗から減封と書かれている)なのですから、吉継が遺恨に思うことはないのです

つまり、吉継西軍参加理由も結局まだまだ謎ですね

しかし三成とは奉行として同じ仕事をしていた時もありますので、「疎遠」などはなかったと思います



家康私婚問題時に各大名が家康派と利家派に別れた(家康派の大名の方が多かった)際は、親家康派だった吉継邸に真田親子(昌幸・信幸・信繁)も待機していたようです。

ですから東国方面と連絡を付けるルートを確保するためには、真田家を西軍へ引き込まなければならず、三成との縁戚関係よりも吉継との姻戚関係を重視した(と思われる)真田家を引き込むために吉継の西軍参加は必定だったと思います



秀吉死後「秀吉遺言」によって政権執政の家康の元で、吉継は大名の揉め事の仲裁に名前が見えます

吉継は仲裁役の担当だったか、得意だったのではないか


武断派と文治派と言われている派閥の揉め事にも吉継の名前が上がらないことも納得できます

武働きだけではなく、平時の吉継の行動に魅力&興味があります

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鬼手仏心さん

2016/3/2622:22:37

石田三成は恩義の為に戦ったという点では純粋だと思いますが、官僚あがりで、先陣を経験してない為に、宇喜田の大軍が到着した時に、宇喜田自信が自分の軍勢だけで突撃するから山に戦陣をしいてる藤堂らに夜襲を仕掛けようと主張し、島津も同調しましたが、三成は考えに考えすぎて「今、決戦の前に兵力を失うのはもったいない」というような事をいい、宇喜田、島津、小西を失望させました。

特に島津が中立姿勢を貫いて東軍を一切攻撃しなかったのは三成の戦国大名としてのあまりにも優柔不断な態度であったと池波正太郎さんは「真田太平記」でふれてます。

小西も官僚でしたが、小西は「朝鮮の役」に自信が軍勢を率いて出陣して、明が大軍で援護してる限り勝てないと悟り、和平工作をひそかに行っていました。

秀吉にばれた時に秀吉は激怒しましたが、同僚の三成がとりなしました。

大谷吉継の娘が確か、真田信繁(幸村)に嫁いだと記憶してますが、立派な戦国大名だったと思います。

らい病が戦闘中に悪化し、最後は両目が見えない中、部下に戦況を聞いて、負けを確信すると、自害したと記憶してます。

だらしないというか、意固地なのは島津だけで、千名と少数とはいえ、最初は東軍につくはずだったが、東軍につくことができず、西軍についたと思います。それなのに、三成にいくら失望しようが、それは宇喜田も小西も同じなので、ひとたび西軍について、戦場に布陣までしたなら、参戦すべきだと思います。

少数ですが、島津の兵士の戦闘能力は高かったので、島津が本気で鬼モードになったら、東軍が押され、日和見の小早川も西軍に寝返った可能性もあります。

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2016/3/2622:01:25

本来大谷は家康方だったんです。何故三成に加担したかは、太閤主宰のお茶会の時武将たちが茶碗を廻し飲み(そういった儀式)した時、らい病だった大谷の膿が茶碗に不覚にも落してしまった。次席の三成は何も言わず其れを飲み干した、いきさつから恩義を感じた大谷だった。世間一般では三成は評判は悪いのですが実像は人間味ある人だったと思ってます。戦場が関が原と分かった夜一番にした事は関が原の農民920人を避難させた事でした。戦後関が原の農民は三成に現在でも感謝をしてるそうです(関が原ウォーランド館長談話)。また三成の家老島左近は猛勇で名高い武田の家臣で誰もが家臣に欲しかった武将を自分と同額の給料で射止めた武将(事実関が原では黒田・福島隊と対等に戦った)。戦後捕えられた三成は家康の前に引き出されたが、家康は縄を解かせ自分の陣羽織を着させ「戦の勝敗は時の運」と慰め「三成、そちは死罪を申し付けるが娘は(津軽の殿様の姫)無罪放免にいたす」と言い渡された時三成の頬に一滴の涙が流れたそうな(関が原館長談話)また武将人間好きの家康は「太閤は良き家来を持った。私も三成のような家来が欲しい」と呟いたそうです。そんな人間味ある人格に大谷吉継は惚れ込んだのでしょう。宇喜多は親父は煮ても焼いても喰えぬ人物でしたが当の息子は義を重んじた真面目な武将ですよ。商売人だった目先の利く小西も普通に考えれば当然家康方に付きそうなものですが三成との親交の深さだしょうか。歴史的に惨めなのは毛利でしょうか。

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cho********さん

2016/3/2621:03:34

では私見でお答えしてみます。

>関ヶ原の大谷吉継
>真田幸村同様、素晴らしい武将

質問者さんが評価してるポイントが[逃げずに死ぬまで戦え]という事でしたら[このケースでは]賛成しかねます。

確かに命を[賭けねば]ならないのは武将たるもの当然ですが、必ずしも命を[捨てねば]ならない訳ではない。

つまり死を覚悟をしないで戦場に出てはならないが、必要なら生きて帰って他日を期すべき時もある。

…と言っても、僕は

[良質な一次史料に殆ど記載がない為、吉継と三成が親しかった証拠はない]

という説の方を取っていますので、私情を挟むなと言っている訳ではなく、寧ろ超マイナー説扱いされている、

[この謀叛劇の首謀者は三成ではなく吉継]

という説(宣教師の記録アリ)も充分にあり得るとすら見てる。

これなら吉継が当時は家康シンパだったのが、宇喜多騒動の顛末で家康に敵意を持ち、西軍に寝返ったとする説も不思議ではなくなる。

…だって首謀者なんだからw

つまり

①秀吉の遺言で家康が執政

②毛利・上杉・宇喜多などは面白くない

③上杉が不貞腐れて上杉征伐決定

④吉継、チャンスと見て家康執政に不満な毛利や宇喜多に手を回した上で三成を説得。

これだと引退していた三成が余りに手際よく毛利や宇喜多と連携できたのも、(史料的には)特に懇意でなかった吉継と三成がいきなり繋がるのも納得が行き、かなりの疑問が解消される。

…もちろん僕の知識の範囲での勝手な推理ですがねw

で、仮に吉継のプランだとしたら尚更生きて大坂まで戻り、毛利輝元に

[内府公が何と言っても和議を結んではなりません!]

と強く進言する道を選ぶべきだった。

…出来たかどうかは別にしてw

西軍ファンが悔しがる様に、まだ巻き返せるチャンスは充分あった素晴らしいプランだったんですからね。


以上、私見ばかりですが参考になれば。

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kas********さん

2016/3/2613:32:55

大谷吉継の評価は高いものだと思っています。

しかし、関ヶ原の戦いでは
死を覚悟で戦ったというよりも、霧が深い夜明けに小早川勢に奇襲され
あっという間に壊滅しています。
逃げる間もなかったという事です。

秀家や行長、三成勢は、大谷勢が壊滅するタイミングで関ヶ原西部の
山中村に到着し、陣を張る前に小早川勢に掻き回され敗走します。
つまり逃げる間があったのです。

私的に真実が観えてきてガッカリしていますが
関ヶ原の戦いとは一方的な戦いです。

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