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天下普請について 徳川幕府は、諸大名を使って(天下普請)たくさんの城を築きま...

shi********さん

2016/5/814:01:55

天下普請について

徳川幕府は、諸大名を使って(天下普請)たくさんの城を築きました。

江戸城:将軍家の居城
名古屋城:尾張徳川家の居城
駿府城:家康の隠居城
二条城:京における徳川の城
と、この辺りは分かるのですが、他にも彦根、高田、伊賀上野、福井、篠山
などを天下普請で造営しています。それぞれは交通の要所なのは分かります
が、それらは結果、家臣の城になったのに対し、和歌山城と水戸城は天下普請
ではありません。この違いはなぜなのでしょう?

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ros********さん

編集あり2016/5/1019:53:30

天下普請は徳川家康が豊臣秀頼の大坂城と主に西国外様大名の遮断。万が一の時に朝廷のある京都を豊臣家に占領されてしまう。またそこから東へつまり江戸へ攻め登られない様に構想したものです。
和歌山城は当時、外様大名の浅野幸長が支配し、しかも和歌山を抜いても街道は続いてません。よってここを豊臣家にとられても影響力で言えば低く戦略的重要地ではありません。交通の要衝とは言い難いです。外様大名の城に対しての天下普請はありません。例外は藤堂高虎ですが実質はほぼ徳川譜代扱いで家康の信頼の厚い大名です。
水戸城はご存知の通り東国にあり、豊臣包囲網外です。
また豊臣家滅亡後は幕府は一国一城令を出し逆に城を減らさせ、整備もさせない真逆の方向に方針転換しています。

  • 質問者

    shi********さん

    2016/5/1418:37:02

    なるほど、城の天下普請は徳川一族や譜代のためではなく、豊臣への備えだったのですね。正則と清正の普請エピソードがありますが、豊臣恩顧大名の力を削ぐ目的もあったのでしょうね。

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2016/5/1020:22:38

紀州和歌山藩は陸上交通の要衝ではありませんが
西国大名が海路で江戸を目指す場合、難所の熊野
灘を通るので、紀伊半島の沿岸に停泊することが
欠かせません。それへの抑えとして配置されたの
です。だから、巨大な城郭は必要ではありません
でした。沿岸の港に守備隊を置けば良いのです。

また、水戸城は仙台藩等の北方への備えの位置で
すが、北への防衛線は会津若松城の松平家、そし
て江戸時代の初めに人為的に流れを変えた利根川
でした。広大な利根川を天然の「お掘り」として、
その南岸を守る方が遥かに効果的でしたから。
だから、水戸城は重視されなかったのです・・・


ニャるほど・・・

紀州和歌山藩は陸上交通の要衝ではありませんが
西国大名が海路で江戸を目指す場合、難所の熊野...

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gag********さん

2016/5/817:23:38

交通=江戸への進撃ルートという意味では交通の要所に天下普請の城がある
というご質問者さまの認識通りかと思います。

ただし、
天下普請は豊臣家対策&西国の外様大名対策の城として、
徳川幕府(江戸城)を守るために作られたものに対し
和歌山城も水戸城も上記には関与しない(進撃予想ルート上にない)
という違いはあるかな?とは思います。

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usai21さん

2016/5/815:40:02

徳川秀忠の御三家に対する考え方の現われじゃないでしょうかね。

徳川家康は晩年に出来た子供達を可愛がり、徳川将軍家の盾となるように徳川義直に天下普請で名古屋城を与えました。
それはぎりぎり徳川家康の在世中の決定事項でした。

さすがに神君家康の決定事項である名古屋城を取り壊したり取り上げたりすることはできないのでそのままにされましたが、御三家という存在は秀忠から見ると盾ではなく、家康の実子であるという自意識の強い弟達であり、秀忠の血統から将軍職を奪うかもしれない時限爆弾のようなものです。

それらに巨大な城を持たせたくない、特別意識を持たせたくないという考えがあったように思います。

まず、和歌山城ですが徳川頼宣の入府は家康死後でした。
秀忠は資金援助を行って城の改修を指示しますが、その割には色々と修繕内容に難癖をつけては謀叛の疑いをかけます。

秀忠の意図は御三家の格式に恥じない程度に破れを修繕して屋敷を構えさせる程度のつもりで指示をしたのでしょうが、総構えを作ろうとしたりと城の縄張りを大改修し始めた頼宣に苛立ちがあったのでしょう。

そして水戸城ですが、最初は頼宣が家康在世中に入府しましたが、さすがに関東一円の内側に江戸城に匹敵するような巨城は不要と考えていたのでしょう。
秀忠の代になっても、城の増改築はほとんど行われませんでした。

水戸城は外様大名の城と比べても相当に質素で、天守なし、石垣なし、櫓もほとんどなしという城と言うより屋形に近いものでした。

東北諸侯の叛乱は恐ろしいですが、それ以上に江戸の近辺に巨城を持つ時限爆弾のほうが恐ろしかったでしょう。
もっとも、水戸藩は江戸定府を命じられる家なので、国許の城は実質的に元藩主の隠居屋敷とかわらないので、巨大な城砦が不要だったいう背景もあるかもしれません。

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