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ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでの僕の全般的な感想というか、印象を先ず書...

shi********さん

2016/5/2419:43:37

ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでの僕の全般的な感想というか、印象を先ず書かせていただきます。
この小説の主人公であるラスコリーニコフが、名前の通りに分裂した人間であることは分かります。

彼自身も自分が分裂した人間であることを分かっていたみたいですが、しかし彼はこれからの自分の未来を予感していて、分裂はしていても夭折しない限り自分が片一方の道へ結局は落ち着くであろうことを、前もって知っていたような気がします。
運命の糸に引かれる…というよりは、自らそれを求めているような感じです。
ラスコリーニコフが、まだ大学へ行っていた頃…彼がある特殊な論文を書いていたその当時からもう既に『良心の呵責』という重荷を感じていたことが予想されます。それを押し潰す為に自らが考え出した完璧な論理が、皮肉にも逆にそれを大きくしてしまったようです。その結果、彼の分裂は決定的なものになるわけですが、しかし・・・彼は自分がどっちの方向へ行くのかを、もう既にこの頃から自分で予感していたのではないでしょうか。

ドストエフスキーの小説を読んでいて感じるのは、人間が真に目覚める為には、『罪』が必要であるということです。これはキリスト教を、あるいは正教を理解しないと分かりづらいことかもしれませんが、しかし感覚としては分かります。所詮は同じ人間なのですから・・・
『罪と罰』は、まるで迷路の中で最終的に一方の出口へ向かって繰り広げられる出来レースの感がありますが…しかしこれは、神がそう仕組んだというのではなく、ラスコリーニコフ自らがそれを求めていた結果であると思うのです。
ソーニャとの出会いにしても神が仕組んだことではなく、彼女の父親との出会いの中で、ラスコリーニコフが求めていた願望がソーニャという人間を引き寄せたのであり、そしてソーニャもまた自分の求めるものをラスコリーニコフの中に見出したということなのだと思います。ここに神の出番はありません。神はもっと遠くの方で見ているのだと思います。
その神が用意したスヴィドリィガイロフという出口も、ラスコリーニコフにとっては意味をなさなかったようで、ソーニャという出口だけが彼を救ったということになります。

つまり僕がここで言いたいのは、ラスコリーニコフという人間を救ったのは自分自身であったということです。でもそれは、彼が犯した犯罪からの救いということだけではなく、彼が生来求め続けていた本当の救いであったのだと思います。
その本当の救いが何を意味するのかは、ここでは書くことが出来ませんが…それが人間が生来持つかもしれない『良心の呵責』からの救いであることは予想できます。

大雑把に書いた小説に対するこれらの僕の印象ですが(僕の周りにはこの小説を読む人がいないので、誰とも話が出来ないのです)、これが見当違いで、間違ったものではないのか、どうかを知りたいのです。どなたかボランティアになると思いますが、ご教示いただければ幸いです。よろしくお願いします。

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som********さん

2016/5/2618:53:03

私はドストエフスキーの小説と言うのを後進国がこれから先進国になろうとする、その過渡期の知識人の悲劇として読みました。
タイトルに「罪と罰」と書いてあるとか、「良心の呵責」とか、そのような意味では読んだことはありません。
当時のロシアはヨーロッパと比べて後進国でした。
それは日本の明治時代も同じです。
後進国がこれから先進国になろうとするとき、それをリードするものとして期待されたのが、大学知識人です。
先進国であるヨーロッパの知識・思想を学び、それをもって後進国のものの考え方を否定し、社会の近代化を推し進めようとしました。
しかし、その一方で後進国としての古い価値観との葛藤に苦しめられました。
意識は二重に分裂するのが避けられませんでした。
一般的に言って、知識人が知識を獲得すると、大衆のレベルよりも上昇して、大衆を上から目線でバカにする傾向が強くなります。
ラスコーリニコフも、強い人間は弱い人間を支配すべきと考え、神がいなければ何をやっても、それがたとえ殺人でも許されるのではないか、と言う思想を抱き、それで実際、老婆を殺しました。
「罪と罰」にはナポレオンの話が出てきますが、ナポレオンのような天才はいくら人を殺しても許されるのではないかと考えました。
そしてラスコーリニコフも自分も殺人が許されるのではないか、と思って老婆を殺害しました。
この、人間は知識を獲得すると大衆のレベルよりも自分が上昇して大衆をバカにする、と言うのを故・吉本隆明は「知識の自然性」と言って、後進国が先進国に飛躍しようという時に大学知識人に良く見られる共通の考え方だと言っています。
しかし、本当の知識人の課題は、知識を獲得して大衆のレベルを上昇しようとする「往相」にあるのではなく、かえって知識を獲得して、それを相対化し、大衆のレベルに下降し、自分もその大衆の一員であることを自覚する「還相」にある、と言いました。
ラスコーリニコフにとって、その大衆こそが、娼婦ソーニャでした。
ラスコーリニコフは自分の間違いに気が付き、ソーニャの前にひざまずき、ロシアの大地に接吻しました。
知識の「往相」から、「還相」に至ること、それが自分の課題だということを知ったのでした。
このことはドストエフスキーの人生にも言えます。
かつてはロシアのテロリスト・グループに属し、皇帝暗殺を企みましたが、失敗し処刑されるところでしたが、シベリア送りにされ、その流刑地でロシアの大衆というものを見いだしました。
それをきっかけにドストエフスキーは「転向」し、「罪と罰」以降の作品で、ロシアのテロリストを批判するに至ります。

ロシア以外で、ドストエフスキーの文学をもっとも読んだのが日本です。
それはロシアと日本が、後進国でこれから先進国になろうと発展する途上にあったからです。
たとえば戦前の日本共産党の知識人などを見ると、ドストエフスキーの小説の主人公とそっくりです。
自分たちのことを大衆を先導すべき「前衛」と思っていて、大衆から孤立して、それで自滅しました。
ちょうどラスコーリニコフが大衆から孤立して、荒涼とした風景の中で生きていたのとそっくりです。

でも、今の日本はすでに先進国ですので、今やドストエフスキーの文学を読もうとする人はそんなにいないと思います。

  • 質問者

    shi********さん

    2016/5/2621:13:07

    ご回答ありがとうございます。
    かつてのロシアや日本のような、いわゆる後進国における知識人と大衆との関係が、指摘されているようなものであったことは僕も理解できます。そういう観点からのドストエフスキー離れというのも理解できるところです。還相という言葉を始めて伺ったのですが…僭越ながら・・・上層と下層の二極で例えるとするならば、僕は上層を支える下層であるところの人間の精神に対してこその還相ということが最も大事なことではあるまいかと感じました。
    この還相についての文章が妥当なものなのかどうか分かりませんが、その意味は汲み取っていただけるものと思います。ありがとうございました。

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質問した人からのコメント

2016/5/29 18:55:03

ご教示ありがとうございました。
先般は失礼な返信をしてしまい、申し訳ありませんでした。
知識の「往相」から「還相」に至るという言葉の意味が僕にも理解できました。
勉強になりました。ベストアンサーとさせていただきます。
ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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war********さん

2016/5/2618:59:45

ドストエフスキーの「罪と罰」を読みました。中学1年の時に初めて読んで、25の時に最後に読み、それから40年ぶりで読んでみました。そこで、いまさらのようにふと疑問に思ったことがいくつか。

〇 この小説のテーマはなんだろう。まさか凡人と非凡人の理論でもあるまいが。
〇 スヴィドリガイロフはなぜ自殺したのだろうか。まさかドーニャにふられたからでもあるまいが.
〇 ラスコーリニコフはなぜ死なずにおめおめと自首したのだろうか。まさか死ぬのが怖かったわけでもあるまいが。


補足
自分の質問に自分で答えるというのもどうかと思うが、問えば問うた者は答えを求めて自分でも考える、その結果として答えを得た、ということで話を進めると、「罪と罰」のテーマはラザロの復活ではないだろうか。ラスコーリニコフもソーニャも、一線を越えた人間であり、つまりはいったんは死んだ人間である。スヴィドリガイロフも多分一線を越えた人間であり、しかも彼は根っからの無神論者であって、神を信じることができないから死ぬしかなかった。ソーニャは神を信じているから復活し、ラスコーリニコフはソーニャの導きによってこちら側に戻りつつあるから自死をためらった。そういうことでしょうかね。

ある回答者の回答
私は大体waremokou-nariさんの自己解説で正しいと思いますよ。
ドストエフスキーは、心が傷つき、世界への不信感、隣人への不信感を抱いた、孤独な若者が、キリスト教を信じることで、世界と隣人への愛と信頼感を取り戻す姿を書きたいと願っていたと思います。まさにラザロの復活を描きたかったのです。
それは罪と罰だけでなく、悪霊のシャートフや、未成年の主人公、カラマーゾフのミーチャ、イワン、アリョーシャの姿にもそれぞれ、そのテーマが関わっています。
一方、不信感を抱いたまま、生きることができず破滅(自殺とか)する人物も描かれています。スヴィドリガイロフと悪霊のスタフローギンがそれです。
罪と罰は、ソーニャの愛で復活するラスコール二コフと、ドーニャの愛を得られず破滅するスヴィドリガイロフが、対比的に描かれているのでしょう。
スヴィドリガイロフは、よく読むと生きる意味を見つけられないまま中年を迎えたラスコール二コフのように描かれ、ラスコール二コフのもう一つの姿を示しています。
ただ、自殺するほどの純粋な絶望は若者にこそふさわしく、ただれた中年男のスヴィドリガイロフにはふさわしくない感じがします。
多分、ドストエフスキーは、それで自殺する悪霊のスタフローギンを若者にしたのだと思います。
また、悩める若者と人生の意味を失った中年男のテーマは、カラマーゾフのイワンと悪魔の会話で再び書かれます。

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という感想まで引き出したのですから、
ドストエフスキーはやっぱり大したものだと思います。

自分の感想は、
ラスコーリニコフは屈折して悩める青年の代表であり、
ソーニャは新約聖書の神の使いでした。

「広場で大地にひざまずいてキスをしなさい」
家族のために娼婦までした女性が言える言葉だろうか?

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