ここから本文です

中国で曜変天目がほとんど発見されないのは、なぜでしょうか?以下の中から特に大...

morinosatooさん

2016/6/1921:30:23

中国で曜変天目がほとんど発見されないのは、なぜでしょうか?以下の中から特に大きな原因となっているのは何でしょうか?

①中国は戦乱だらけであったため逸失した
②曜変天目自体が数万個焼いて一つしかできないほどの珍しい存在だった
③曜変に対して特に貴重さを感じたのが海外の人間であり、ほとんど輸出されてしまった
④その他

補足誤記訂正します。

逸失×
散失○

閲覧数:
7,079
回答数:
8
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

gsgsgsgs14さん

2016/6/2620:06:36

この質問には、質問者のひとつ前の質問である「複数名の方が高いレベルで再現したと言います。 誰が一番本物に近づいているのでしょうか?」 について、先に述べさせてください。それが、今回の質問に対する答の基礎になります。(文中、敬称略)

私は、長江惣吉による曜変天目再現の成果を最も評価します。その根拠は、NHK・Eテレの番組、ETV特集「曜変~陶工・魔性の輝きに挑む~」(2016年6月11日放送)にあります。その中に、中国杭州で発見された曜変の陶片を、成分分析調査をする場面がありました(分析は中国当局の横ヤリが入って中止)。その研究者のチームは長江惣吉の他、出川哲朗(古陶磁学者、大阪市立東洋陶磁美術館館長)、小林仁(中国陶磁史学者、大阪市立東洋陶磁美術館)、中井泉(分析化学、理学博士、東京理科大学教授)、福嶋喜章(ナノ科学研究、工学博士)、藤田清(国宝曜変天目所蔵、大阪藤田美術館館長)というメンバーでした。これは現在考えうる、曜変の謎を解くべく集結した最高のチームといえます。関連学界の学者や権威が、長江惣吉を唯一の曜変再現研究作家と認証したわけです。そして番組中で、藤田美術館所蔵の国宝曜変の史上初の科学分析がなされ、「曜変の謎」がかなり明らかになったのです(以下)。

① 曜変は1300℃以上の高温で焼いている(これは杭州出土の曜変破片と長江作品の断面の比較によって明らかに。従来の定説では1250℃程度といわれていた)。

② 国宝曜変の釉薬の成分には、焼成結果に大きな影響を与える鉛などの重金属類や特殊な金属成分がほとんど含まれていなかった(東京理科大学・中井教授の蛍光X線分析による。それによれば若干、鉛の検出があったが、これは天然原料の含有率の範囲内でありほぼゼロに等しい値)。すなわち、通常の天目茶碗の釉薬と同じであったこと。

③ 国宝曜変の釉薬の蛍光X線分析のグラフが、同時に検査に掛けた長江惣吉作曜変の分析結果のグラフとほぼ重なった。長江曜変の釉薬は、マンガンと珪酸が若干少なめであったものの、国宝曜変の成分とほぼ同じという結果であった。

④ 国宝曜変にある特有の斑紋(星紋)を拡大撮影したところ、形状的特徴から、釉薬の気泡の破裂痕であることが判明。すなわち、手描きの上薬技法などによるものではない事が証明された。

そして、曜変の新しい知見は以下の2点であろうと考えます。

1、曜変の再現として従来から行われてきた、黒釉(鉄釉)を掛けた本焼き(高温焼成)後の碗の内側に、鉛や銀を含む上薬を使って手描きで斑紋を描き、低温焼成によってそれを焼き付けて金属膜由来の光彩を得る方法は、中国宋代で行われた本来の方法ではないこと(林恭介が採用している技法)。

2、国宝曜変の蛍光X線分析のグラフから、わずかながら塩素が検出。それは光彩を得るために行われた酸性ガス法の残痕であるという可能性(この結果を受けて、長江惣吉は試作品に実践、良好な結果を得る)。番組の解説によれば、酸性ガス法とは、焼成中の窯中に酸性物質(鉱物)を投入して酸性ガスを発生させて釉に光彩を出現させる技法のこと(番組では、長江惣吉は紙で包んだ塩素を含む調剤を窯へ投入。もともとこの技法は、長江惣吉の父上が採用していた技法だという。ちなみに長江はそれまでは蛍石による酸性ガス法を採用していた。塩素もフッ素も釉面に変化を起こして光彩を発生させるが、そのメカニズムを解明するには至っていないもよう)。

以上が、このテレビ番組を視聴して分かった大切なポイントです。その他以下のような長江惣吉に関する資料が出ています。『陶説№585』(2001年、長江惣吉「曜変考」)、『陶説№719』(2013年、長江惣吉「続・曜変考」)、『東洋陶磁VOL.41-宋代建盞の光彩の研究』(長江惣吉・福嶋喜章共著2012年、東洋陶磁学会)、『炎芸術№81-ミステリアス天目』(2005年、安部出版)、『なごみ-天目への招待』(2008年、淡交社)、『陶遊』(連載継続中の「曜変への道」、隔月刊、エスプレス・メディア出版)。

(上記資料内容の重要ポイント)長江惣吉は正しい曜変の再現方法として、「宋代建窯で使われていた胎土・釉原料、同じ焼成方法」で制作すべきと考え、二十数回にわたり中国建窯とその周辺の調査を行っています。そして曜変の胎土と釉原料(釉石)を突き止め、許可を得て採掘・輸入して制作に使用しています。焼成も、最初は宋代の龍窯(登窯の一種)を山中に復元して実験したようですが、研究の結果、現在では小型のガス窯を中心に使っているようです。彼の焼成方法は宋時代と同じではないにせよ、土と釉薬は曜変と同じもの(中国建窯産)を使用していることを重視したいと思います。もし他に国宝曜変にそっくりの作品を作った陶芸家がいても、同じ原料を手に入れることは不可能です。完全に近づくための再現という観点ならば、長江惣吉以外は誰もスタートラインに立てていません。

また、ETV特集「曜変~陶工・魔性の輝きに挑む~」によって、それまで学者や専門家などが述べていた学説が、幾つか覆りました(以下)。

1、論文「杭州出土の曜変天目」(専修大学講師・水上和則、ネット上で公開)
曜変天目の光彩についての論述部分、「古瓷曜変光彩が強い青色に見えるのは、特定波長に関わる回析格子の存在を思わせる。すなわち曜変の暈彩(光彩)は、高火度黒釉上に微細な回析格子が存在する状態で金属蒸着による薄膜が複数重なり合った結果発生したものと推察させるのである。」の、「光彩が金属蒸着による薄膜が複数重なり合った結果」であるという推察は、この度の国宝曜変の釉の化学分析によって完全に否定されました。

2、『中国と茶碗と日本と』(法政大学社会学部講師・彭丹、小学館)
曜変天目についての記述、「小山冨士夫氏は、建窯址の調査で窯変天目の破片が一片すら見つからなかったと述べる。それは、窯変が窯を出てすぐきれいに抹殺されてしまったためである。それゆえ、書斎や廟堂にいる宋の文人や皇帝は、日本でのちに「稲葉天目」と呼ばれるような茶碗の存在も知らなかった。当然それを用いて茶を飲むことも、詩文に詠まれることもなかった。現在、中国に曜変天目が残されていないのも、そのためであると私は考える。(P121~122)」。中国人である著者によるこの本は、発刊当初、新聞の書評などに載り話題になりました。とくに曜変天目への見解は、「中国では、曜変のような通常と違う異変のある器は、大変不吉な物と認識されたので出来ても毀されてしまった。しかし、才覚のある商人が、それを単なる美しい器としか認識しない日本へ運び入れた」という論調です。この本は2012年に発行されました。じつはそれ以前の2009年頃、宋の皇帝の宮殿跡から曜変天目の破片が発見されていたのです。この事を知った著者はきっと狼狽したことでしょう。しかし、この本の記述によって、世の中にトンチンカンで罪深い説を流布してしまった事は他の回答者を見ても確かです。それはファンタジー(妄想)を史実であるかのような表現をした著者の軽率さにあります。反省して欲しいです。

3、『唐物茶碗』(責任編集・矢部良明、淡交社)
曜変天目(稲葉天目)の資料写真の説明(P29)として、「(略)。虹彩とよばれる隈取りがどうしてあらわれたか、化学的には謎とされている。」これは、国宝曜変を解説した多くの出版物に共通した表現ですが、今後は、例えば「藤田美術館蔵・国宝曜変に対して行われた化学的分析の結果、釉薬に特殊な成分は含まれず、かつて存在した(光彩は重金属類による)という説は否定された」などの解説に移行する必要があると思われます。

そして、以上を踏まえて、今回の質問「中国で曜変天目がほとんど発見されないのはなぜか?①中国は戦乱だらけであったため逸失した、②曜変天目自体が数万個焼いて一つしかできないほどの珍しい存在だった、③曜変に対して特に貴重さを感じたのが海外の人間であり、ほとんど輸出されてしまった、④その他 」について考えてみたいと思います。

まず、①の戦乱のために失われたというのはその通りだとおもいます。今回の中国揚州で発見された曜変の陶片の発見場所が、宋時代の皇帝の宮殿跡だったという事は、その器物が平和的に伝世しなかった事実を物語っています。中国では民族や国家が変わるたびに、破壊と殺戮が繰り返されました。②ですが、これは現在までのところ、曜変は4点しか存在しないのですから、同時代に作られた油滴天目や青磁の残存数と比較しても明らかです。そして、ETV特集の長江惣吉による再現製作から、いかに成功率の低い焼き物であるかが実感できると思います。③は、先に紹介した『中国と茶碗と日本と』からの考え方だと推察しますが、トンデモ説だとお分かり頂けたと思います。ですから結論としては、①と②の両方が正しいといえます。

ちなみに、杭州の曜変(陶片)が700年も地中にあってもその光彩を失わなかった理由を、長江惣吉が早くから述べています。曜変天目の光彩は、オパールやCDの虹色のように、物質の色)ではなく、一万分の一ミリ単位の規則的な微細構造により生まれる見かけ上の色、すなわち構造色だという事です。それは金属や顔料・染料などの物質色ではないために経年変化や風化に強いのです。重金属類を使った現代の技法による擬似曜変天目には、酸化や変色などを防ぐために樹脂系のコーティングを施すのですが、それも年月がたつと剥れたり変質して色彩や光彩をキープする事は不可能なのです。国宝の曜変天目や杭州曜変の、数百年にわたって燦然と輝き続ける光彩の「不変性」に答があったのです。それに最初に気づいた長江惣吉と科学者たちによって、その完全な製作法が解き明かされる日も近いのではないでしょうか。以上、参考になれば幸いです。

質問した人からのコメント

2016/6/26 20:36:12

質問からは脱線した回答ですが、興味深すぎてBAにしてしまいました。ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/7件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

marcobrunn8さん

2016/6/2610:22:02

このことについて考察した本があります。

「中国と茶碗と日本と」という題で、中国からの留学生のホウタンという人が著者です。

この本によれば曜変という現象は不吉なもので特に朝廷に知られてはならないものだったそうです。中国で曜変について書かれた資料も紹介されていますから興味があればお読みください。

曜変以外のすぐれた天目茶碗も日本に多く残っているのですがその理由なんかも考察されています。

https://www.shogakukan.co.jp/books/09388258

bsdfreedさん

2016/6/2205:14:05

曜変天目の高台は非常に精密に削りだされており、
光彩や斑紋を抜きにした単なる天目茶碗としても
器自体のプロポーションやクオリティは突出しています。
建窯の窯跡からの発掘品や海底の沈没船からの引き揚げ品に
このようなものは見当たりません。
日本存在する禾目天目、油滴天目も、
大陸の伝世品に比べると品質のレベルが違うものが多いのですが、
日本伝世のそれらと比べても曜変天目の高台のクオリティは整っています。
特に静嘉堂文庫の稲葉天目の高台は世界一と言っていいほど素晴らしい出来です

このことを踏まえると、龍窯という一度に数万個焼成する窯で作られた、
大量生産品の中に偶然発生したというより、
より小規模の窯で、
超一流の職人が特別あしらえで作ったものの中に発生したと考えるのが自然ではないでしょうか。
もしかすると曜変現象ですら狙って作り出せるほどの技量があったのかもしれません。

その一端は国宝3椀の高さ、口径、高台径が3ミリ以内の誤差に収まっており、
中国新発見の陶片でも5ミリ以下ということにも伺え、
焼く前の乾燥具合や釉薬の厚さ、焼き締り等々で発生するブレを考えれば
いかに丁寧な仕事で作られたのかわかります。
量産品では考えにくいことです。

以上のことから建窯窯址の廃棄品の丘からは見つからないのも当然であり、
日本に輸出されたものや、中国の宮廷跡からのみ曜変が見つかる理由付けもできます。
なぜ日本に輸出されたか、については中国の茶の流行が変化したため天目が不要になったなど
様々な説がありますが未だに定説はないようです。

yukiwa1221さん

2016/6/2101:21:13

①それもそうかもしれませんね
②どうなのかは謎ですね。復元した人が何千何万個焼いて一つとかでしょう?
でも確実にできる方法を建窯の職人は編み出していたのかもしれないし
③そうとも言えるかも。というのは研究者の講演の聞きかじりですが
義満が永楽帝から南宋時代のアンティークを下賜されたのですが、
当時抹茶文化は既に中国では消失していたのだとか(現地ではいらないものを
日本ではありがたがって大喜びしていたというわけ)。もし、
抹茶を飲むときにあのお茶碗を使っていたのなら、あの形は抹茶文化がない
時代には、もう必要ない形かもしれない。今の中国のお茶の器は茶筅が
必要ないから、日本でいう煎茶道具風ですよね。小さい小さい。
今でさえ日本でも数年前のテーブルウエアも古臭いと思うから、
一瞬の流行モノだったのかも。後援者が変わる世の中だったらなおさら。
④杭州で見つかった破片は、貴人の住居あたりだったそうです。また、
曜変天目は覆輪があることが分かっており、これは金だったようです。
また天目台が必ず付いております。これはお茶碗を最高のものとして
大切にしていた何よりの証拠です。宋の時代に留学した日本の僧から
伝わったのが禅宗で、同時にもたらされたのが抹茶文化。1190年代から
1200年代初め。で、義満1300年代、利休1500年代。ものすごく懐古趣味
だったんじゃないですか。で、禅宗がスタンダードなんでその価値は日本で
揺るぎないものになった。それは為政者の政策にも利用された。
今でいう、「やっぱ家具は猫足よね」とか、「李朝期のもので統一してますの」
とか、「マンションでも水屋箪笥って似合うんですよ」とか、「北欧のぬくもり
って日本人に合うわぁ」など、そんな感じな
異国への憧れ的なものだったんじゃないかな〜。

kusano_ieさん

2016/6/2019:59:59

中国人と日本人の美意識の差かもしれません。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて。

2016/6/2015:25:59

やかましいわ!!!
日本が憎いんやったら祖国帰って戦争の準備せえや!!!ボケ

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問や知恵ノートは選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。