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豊臣秀吉は1592年に二度・三度に渡り かなりの兵を集め「朝鮮出兵」を行い...

てる坊‼️さん

2016/6/2619:46:59

豊臣秀吉は1592年に二度・三度に渡り

かなりの兵を集め「朝鮮出兵」を行いまし

た!その<目的と成果>を教えて下さい!

調べてみたのですが良く解りませんでした!

補足その戦いには「石田三成と大谷吉継」

も参戦し破竹の勢いで勝ち進んだと

有ります!只、その事を今でも韓国

側は日本の侵略戦争と非難してます!

7月3日の真田丸(26話)からの

展開ですので宜しくお願い致します!

秀吉,日本軍,朝鮮出兵,大軍,豊臣秀吉,文禄,内藤如安

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gpx********さん

2016/6/2622:47:56

長文になりますが、どうかお付き合いください。

秀吉の朝鮮出兵は、日本では天正二十(1592)年の「文禄の役」と、慶長二(1597)年の「慶長の役」と呼ばれ二つに分けられますが、この二つの出兵は、それぞれ原因(理由)及び目的が異なります。

<文禄の役>
秀吉は、信長死後の混乱を収拾すると、天正十三(1585)年には中国大陸に侵攻する意向を示すようになりますが、天正十五(1587)年に九州を平定したことで、対明戦争の構想は現実の政治課題となりました。

秀吉は対明戦争の前段階として、まず明の冊封体制下にある朝鮮に国王李昖(りえん:宣祖)の出仕を求め、李昖が要求に応じればその支配権を承認するが、遅延した場合は朝鮮に侵攻する意向を提示しました。

ここで、秀吉から交渉を任された対馬の宗氏は、この秀吉の要求は現実的に困難だと判断し、秀吉には内緒で交渉を秀吉からの使節の派遣という無難な形に置き換え、それを受けて朝鮮側も秀吉の国内統一を慶賀する通信使を渡日させました。

秀吉は、国王李昖が出仕しなかったことは容認しましたが、この使節の来日を「朝鮮が服属を認めた」と誤解し、通信使を通じて対明戦争の案内を要求しました。

もちろん、朝鮮側は日本に従属したとは思っていませんので、秀吉の要求は黙殺されることになりました。朝鮮も、周辺地域の女真族や対馬の宗氏を自国の従属勢力と捉えていたので、日本に従属する考えは無かったのです。

その結果、文禄の役は、まず朝鮮に対する懲罰として開始されました(目的です)。

日本軍は天正二十(1592)年5月に、朝鮮の首都漢城(現ソウル)を陥落させましたが、国王李昖や王子(臨海君・光海君・順和君など)たちは脱出、日本側の追跡から逃れて戦争指導を継続したので、日本側は朝鮮王家を早期に屈服させる機会を逃してしまいました。また、朝鮮軍が各地で抗戦を維持したこともあって、戦況は長期化の様相を呈するようになりました。

さて、李昖は漢城の失陥に際し、明に救援を要請しましたが、その頃明は寧夏地域(現在の内蒙古自治区・甘粛省・陝西省の中間あたり)でボハイ(帰順モンゴル人)の反乱とモンゴル勢力の介入という非常事態に直面し、軍の主力をそちらへ集中させていたので、朝鮮に大規模な援軍を派遣する余裕がありませんでした。

そこで、明の兵部尚書(国防大臣)である石星(せきせい)は、寧夏動乱を収拾するまで日本軍の進撃を遅滞させつつ、和平の可能性も探るため、沈惟敬を特使として対日交渉を行うことにしました。
ただし、明の基本方針は武力で日本軍の侵攻を阻止することにあったので、寧夏動乱が制圧されると、寧夏から帰還した李如松を中心とする救援軍を派遣し、沈惟敬の交渉を停止させています。

ところが、明軍は文禄二(1593)年正月に平壌を奪回したものの、同月の碧蹄館の戦いで敗れ、自力で日本軍を朝鮮から排除するのが困難な状況となりました。
そのため和平交渉は再開されることになりました。日本軍は翌月に漢城から撤退し、釜山を中心とする慶尚道南部を確保する形となります(成果です)。

<慶長の役>
交渉は沈と、日本側の小西行長の間で行われました。沈と小西は明の国使を偽装して文禄二年5月に肥前名護屋城に在城していた秀吉と会見させる一方、小西家臣の内藤如安を日本の国使に偽装して、北京で皇帝の朱翊鈞(万暦帝)と会見させようとしました。
つまり二人は偽装使節の謝罪によって日明両国の戦勝を演出しようとしたわけです。二人が内藤如安に持たせた上奏文には、「秀吉の本意は明に冊封と通商を乞うことにあり、朝鮮にその仲介を依頼したが握りつぶされたため武力を行使した」という虚構が書かれており、秀吉が大陸征服のために開戦した経緯を隠蔽した上で、戦争の責任を朝鮮に転嫁し、明に秀吉の冊封を求める論理を提示したのです。

なお、豊臣政権は沈・小西の交渉を進めさせながら、北京会見が不首尾に終わった場合を考え、文禄四(1595)年正月に関白秀次を大将として再度出兵させることを計画していました。

明側としては、日本軍を撤退させた上で冊封を執行しようというものでしたが、秀吉は冊封の受容を了承しつつ、朝鮮から王子を出仕させ、占領地(釜山などの慶尚道南部)を下賜するという形式で、朝鮮に対する戦勝を演出しようとしました。

明使節は文禄五(1596)年閏7月、朝鮮使節は翌月に泉州堺に到着しました。秀吉は王子不参加の朝鮮使節は待機させ、9月に明使節のみを大坂城で引見し、冊封文も受領しました。秀吉は朝鮮側の対応に不満を示したものの、明から譲歩を引き出したことで対明戦争の幕引きを図ったのです。

ところが、会見の直後に明使節が堺での実務交渉で日本軍の全面撤退を求めると、秀吉は朝鮮に対する武力行使の再開を決定しました。
秀吉としては、対朝鮮戦争の勝利を演出しない限りは撤兵に応じられず、占領地を慶尚道から全羅道や忠清道に拡大することで、朝鮮に屈服を強要しようとしたのです。

つまり慶長の役は豊臣政権が体面を保つために始めた戦争で、朝鮮との妥協さえ成立すれば戦争は起こらなかったわけです。そのため小西行長や加藤清正は朝鮮側に王子(または高官)の渡日を求め、再戦を回避しようとしています。

文禄の役は大陸征服の前哨戦として始まりましたが、秀吉は慶長の役は赦免を受け入れない朝鮮に対する再度の懲罰として遂行しており、交戦国も朝鮮のみに限定しようとしていました。しかし明は朝鮮救援を続行し、戦争は再び日本と明・朝鮮連合の対決となったのです。

文禄の役が、朝鮮側が充分に対日戦争を準備しておらず、日本の戦略的奇襲が成功した戦いだったのに対し、慶長の役は明・朝鮮連合軍が相応に準備を整えており、日本軍の攻勢は容易に進捗しませんでした。そのため日本軍は次第に劣勢になり、沿岸部の城郭に拠っての持久戦に移行しました。

このため日本軍の諸将には戦線の維持を困難と判断し、城郭を放棄しようとする動向も見られましたが、秀吉は戦線の縮小を認めず、蔚山合戦での追撃の不徹底も含めて厳しく譴責しました。(この過酷な裁定は秀吉死後に豊臣政権の不和を増幅させ、再審を阻もうとした石田三成が一旦失脚し、再審を執行した徳川家康が支持を集める一因となった)

慶長三(1598)年6月の段階で、秀吉は「秀頼のため」と称して朝鮮側が加藤清正の交渉に応じて謝罪すれば、即座に撤兵する意向を示していました。
つまり秀吉の戦争目的は最終的に朝鮮側から謝罪という譲歩を引き出して、体面を保つところにまで引き下げられたのです。

そして、慶長三年8月に秀吉が死去すると、日本軍は撤退を開始することとなります(成果なし)。

***

秀吉の死後、家康は宗氏を介して朝鮮との和睦を成立させ、明の冊封体制に参入することも模索しました。
しかし家康も朝鮮が和平に応じない場合の武力行使を考えており、さらに島津氏に琉球を征服させ、限定的ながら台湾にも派兵していて、対外戦争を選択肢から排除したわけではありませんでした。

  • 質問者

    てる坊‼️さん

    2016/6/2700:29:14

    1757さん!

    「文禄の役」では日本の奇襲戦が成功したのですね!

    「慶長の役」では朝鮮軍の対攻戦で日本劣勢ですね!

    そして秀吉の死去と同時に朝鮮から撤退し、その後

    家康が朝鮮と和解の道を歩んだとの理解でOKかな!

    長文でしたが凄く解りやすく理解出来ました!ありがと!

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質問した人からのコメント

2016/7/2 16:31:11

皆さんいろいろと有難う!

これから「真田丸」を楽しく

観るためにも勉強します!

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2016/6/2622:26:03

小田原征伐後の奥州征伐までが落ち着いた1591年、秀吉はかねてより構想していた海外進出を決意し、朝鮮・琉球・台湾・スペインのフィリピン提督、同じくインドのゴア提督に降伏勧告の使者を送り、道案内・協力を命じました。
このうち琉球は秀吉の要求を呑んで従った形を取り、スペインは時間稼ぎをのらりくらりと行い、台湾には国と呼べるような勢力がなく交渉相手が見つかりませんでした。
こうした中で李氏朝鮮は完全にこれを拒否、朝鮮に道案内させて明を攻めるつもりであった秀吉はまず、朝鮮を攻めることを決意します。

こうして秀吉は1592年に北部九州に天下の大軍をあつめて、そのうち15万~20万といわれる日本軍が朝鮮に攻め込みました。
この一連の動きの中、李氏朝鮮は秀吉の勧告を全く本気にしていないうえに、極端な文治主義で軍備は脆弱とあって、何も出来ないレベルで各地で敗退を続け、厳しい身分制度を覆そうと各地で騒乱が起こる始末となっていた。
こうして日本軍は4月12日に釜山に上陸してからソウルを落とすまでに21日しかかからなかった。
ここで日本軍は一旦足をとめて再編成を行った後、5月18日に進撃を再開すると5月29日には古都・開城を陥落させた。
大同江で朝鮮軍を破ると、朝鮮軍は平壌を捨てて撤退したので、6月15日に日本軍小西行長隊は平壌に入城した。
一方でこれとは別に東海岸へ向かった加藤清正隊は7月23日には会寧に至り、この地に落ち延びていた朝鮮の王子たちを捕縛した。
7月下旬から8月中旬までの期間、加藤清正は、満州族の力を試すために豆満江を渡って満州に入りこれと交戦したが苦戦し、秀吉に「満州から明に入るのは無理」と報告した。
7月になるとようやく明の大軍が援軍として現れたが、平壌近郊で小西行長軍に大敗する始末であった。

が、日本軍の快進撃はここまでであった。
1593年になってあらたな明の大軍が到着すると、小西行長らは平壌を維持できなくなり撤退、平壌とソウルの間で激戦が何度も行われた。
やがて北方で孤立するのを懸念して、加藤清正らは咸鏡道から撤退を余儀なくされた。
この頃から秀吉や清正のような積極進撃を主張する人々と、小西行長や石田三成ら戦闘の不拡大派の意識のずれが大きくなり、小西・石田らは和平交渉を開始、それを湾曲して秀吉に伝えることで、清正らの立場を孤立させて戦争を終結させようとした。
交渉の第一段階として日本軍はソウルから撤退、南部沿岸まで退却した。

この湾曲された和平交渉により、明は秀吉が降伏したと思い、秀吉は明が降伏したと思い込んだ。
当然、このような認識で和平交渉の条件が折り合うわけが無かった。

1597年までに交渉は完全に破綻し、秀吉は再度朝鮮に大軍を送った。
これを慶長の役という。
全羅道・忠清道掃討戦と領土化という、当初の目的からかなり後退した作戦が展開され、各地で明や朝鮮の正規軍には勝てるものの、ゲリラに悩まされ、補給が十分送れず、将兵は疲れ果てた。
また、忠実に朝鮮半島南部の領土化のみを目指したため、日本軍は明や朝鮮の軍を破っても必要以上追撃せず、各地で物資不足でありながら城の築城にいそしむようになっていた。
これを見た明・朝鮮軍は一気に南下して大攻勢をかけ、特に加藤清正を狙って釜山ちかくの蔚山城で二度大会戦を行ったが、二度とも敗れた。

秀吉は1599年に更なる大軍を派遣しようと準備を整えさせていたが、その前の8月に秀吉が死去。
日本首脳部は戦争の継続はムリと判断し、全軍に撤退を指示し、なんとか全軍が撤退に成功し、ここに朝鮮出兵は終結した。

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chi********さん

2016/6/2620:42:50

まず、信長の思想を受け継いだのだと思います。秀吉も世界征服を望んでたのではないでしょうか。そして天下を統一したことにより自分は何でもできると思ったんだと思います。そして日本国は宇喜多や血筋に任せるつもりだったのでしょう。成果ははっきりと言って日本の負けです。最初は日本の勝ちです。まず朝鮮には鉄砲が伝わってなかった。それに比べ日本はとても性能の良い鉄砲を持っていました。そして一気に漢城を攻め落とします。しかし海からの補給路を断たれ、しかも敵は続々と援軍が来る。NHKの黒田官兵衛でもあったように漢城で守りを固めとけば勝ちまではいかなかったでしょうが有利に和平交渉をできたでしょう。そしてこの朝鮮出兵が豊臣家の衰退の象徴と言ってもいいのではないでしょうか。長くなりゴメンなさい。

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2016/6/2620:29:14

秀吉の目的は朝鮮ではありませんでした。

秀吉は民を制圧するために、朝鮮側へその道案内をお願いしました。

しかし、朝鮮は民の属国ですので当然断ります。

それに激怒した秀吉は朝鮮を武力制圧するために大軍を出兵させました。

日本のサムライは屈強で勇敢で命知らずの精鋭軍団ですので朝鮮の兵は簡単に打ち破られました。

そして、属国朝鮮は宗主国の民に助けを求めました。

民の大軍団が朝鮮に進軍してきました。

数では日本より民のほうが上回っているが、命知らずの日本軍は民の大軍に突撃し奮戦しました。

第2回目の朝鮮出兵時もいいところまで攻め上がりましたが秀吉の死去により撤兵しました。



ですので、当初の目的は民の制圧でしたが、途中から朝鮮の制圧が目的になりました。


成果はあまりなくて豊臣政権を終わらせることになりました。この朝鮮出兵には徳川は出兵していません。

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