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時代を映す鏡について( ^)o(^ ) 一昔前はよく新聞広告に自動車製造の 期間工の...

goo********さん

2016/6/2907:00:04

時代を映す鏡について( ^)o(^ )

一昔前はよく新聞広告に自動車製造の
期間工の募集が出ていましたが
今はさっぱりありません

なぜなくなったのでしょうか?

やはり日本にやってくる黒人がついているからでしょうか?

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not********さん

2016/7/603:06:50

http://msugai.jugem.jp/?eid=910

まず、支配的な理論・業績・手法に基づいた通常科学(normal science)。支配的な理論・業績・手法、暗黙的に知られている常識の集合はパラダイム(paradign)と呼ばれる。パラダイムを受け入れた問題の発見と解決の活動は、パラダイムを構成する要素を蓄積する累積的な活動であり、科学史の大半を占める主要な活動である。
研究者は変則的な事象(anomalies)を問題として解決に当たるが、やがて解決できない変則事例が蓄積し、それが長期間にわたって既存のパラダイムで解決できない期間が続くと、研究者コミュニティ内で危機の意識が醸成される。既存のパラダイムは広範囲に渡って疑われ、通常科学の活動は混乱し、新しい何かの予感が準備される。
混乱の中では、新しい理論が提案され、いくつかの支持者を得て、それらが競合しつつ、比較的うまくいくように見えるものがより多くの支持者を集め、ある段階で支配的となり、それが新しいパラダイムとなる。
通常科学において発見される異常(anomalies)の顕著な例が、19世紀にケルビン卿が英国王立研究所で講演した、「二つの暗雲」に見られる。

ケルヴィン卿(William Thomson (Baron Kelvin of Largs), 1824-1907)は、物理学の理論がもつ美しさと簡潔さが二つの暗雲によって損なわれている(beauty and clearness of theory was overshadowed two clouds)として、マイケルソン・モーレーの実験でエーテルに対する光の相対速度が観測されなかったことと、黒体輻射のスペクトルを説明することができていないことを指摘した("Nineteenth Century Clouds over the Dynamical Theory of Heat and Light.")。前者はアインシュタインの相対論を準備し、後者はプランクによる光の量子仮説を準備した。

競合するパラダイムは、理論上の根本原理だけではなく、研究の基礎を与える業績や手法を異にするため、理論的には共役不可能である。既存の業績も、新しいパラダイムでは新しい光に照らされ、根本的に別のものとして解釈される。よって、パラダイムの遷移は、通常科学フェーズに見られる累積的・連続的な進歩というよりも、根本的な優劣の基準を共有できない切断的・革命的な交代であると考えられる。

第9章
チャルマーズはここで、ラカトシュを合理主義、クーンを相対主義として整理する。

すなわち、ラカトシュは、科学理論の優劣において、歴史を超越した普遍的な価値基準があると考えるがゆえに合理主義者である。

一方、クーンは、理論の優劣は問題解決能力であるとする点で普遍的基準を設けるがゆえに合理主義的ではあるが、その問題はパラダイムによって決定・定義されるものであり、パラダイムの選択が研究者集団の社会学的な問題に還元されるがゆえに相対主義的である。

チャルマーズによれば、いずれの場合も、科学と非科学の間のクライテリアが暗黙的前提とされており、競合する理論間の優劣や選択の普遍的基準について、個人や集団の選択以上の説明を与えない点で満足できないとされる。

第10章~第11章
続く第10-11章では、科学理論それ自体の中に価値を見出す視点として、客観主義が導入される。

まず個人主義と客観主義が比較される。個人の思惟の観点から心理へ至ろうとする試みは、合理主義(ルネ・デカルトの大陸合理論)と経験主義(ジョン・ロックのイギリス経験論)に分けられる。前者は自明な真理から演繹的に推論し、後者は経験事実を帰納して普遍法則を発見しようとする。

一方で、理論発展は個人の主義や信条に直接的には依存しない。つまり、研究プログラムは理論自身に内在しているのであり、その研究者個人には依存しない。例えば、マックスウェルは古典電磁気学を大成したが、電磁波の存在を予言できなかったし、媒質としてのエーテルの存在を信じていたと考えられる。にもかかわらず、古典電磁気学の理論はエーテルの存在を必要とせずに電磁波の存在を導いた。

チャルマーズは客観的理論発展を、主体的理論選択から区別する。理論自身には客観的な発見の機会が内在していると考える。発見の客観的機会は、鳥の巣箱に例えられる。科学者が巣を作り、成果を蓄積する。ある一時点で、より発見の機会が少ない理論の方が多くの研究者をひきつけていても、より豊かな発見の機会を持つ理論の方が、成果をより多く蓄積していき競争に勝利することになる。

チャルマーズによれば、理論が持つ発見の機会の豊饒度は、研究者個人が明示的に意識しているかどうかに依存しない客観的存在なので、ラカトシュの研究プログラムとは異なっているとされる。例えば、過去の理論の中には、発表した研究者個人が気づいていなかったものだけでなく、結局、誰にも発見されずに衰退していってしまったものの、発見されていれば発展されたであろう発見の機会が散見される。このことは、「発見の機会」が研究者から独立して客観的に存在していることの証拠であると考えられる。

第12章:ファイヤアーベントの方法への挑戦
P.K.ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend,1924-1994)は、クーンの開いた新科学哲学に連なる科学哲学者。

ファイヤアーベントが、方法論者であるラカトシュを指して、我が友にしてアナーキスト仲間と称したのは、研究プログラムという構想が、相互に共役不可能な研究プログラム間での選択の意思決定を、どのような選択肢もあり得るとしたことによる。ラカトシュは、理論間の客観的な優劣を決定する価値基準を設けない。

ファイヤアーベントは、既存の科学哲学が主張する科学の発展の方法論を、有害であるとして否定する。彼の主張は、「なんでもよい」(anything goes)であり、「成功するかもしれない試みは何でもやれ」となる。
理論間の共役不可能性(incommensurability)を分析し、究極的には、競合する理論間の客観的・論理的な評価基準は存在しないと主張する(一次的にはふるいわけられるにしても)。
このことは、正統的であるとされる科学とその他の知識形態間の優劣についても同様。既存哲学・方法論は、詳細な分析をせずに、科学をその他の知識形態に対して優越していると前提している。
ファイヤアーベントは、人間主義的態度として、どのように決心するかを学んだ、そして自分に最も適すると自ら考える事柄に向かって決心した人物を擁護している。この辺りは、ポパーの主張する合理主義的態度である、喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度を、欺瞞として批判しているのかもしれないが、良くわからない。

第13章:真理の対応説と道具主義
第13章から14章が、本書の結論部分に当たる。チャルマーズは、既存の哲学・方法論の極端な部分を否定して、その中庸を客観的・実在的観点で救い出そうとしている。極端な客観主義も実在論は、新科学哲学以降の批判にさらされて、誤りであることは明らかである。一方で、極端な個人主義や相対主義は生産的ではない。では、どう考えればよいのだろうか。

まず、実在論と道具主義が比較される。

実在論とは、言明と事実が対応しているとする態度である。シニフィアン(記号表現)とレフェラン(指示対象)が対応することに当たる。例えば、「箱の中に猫がいる」という言明は、「箱」というシニフィアンが指し示す実在の中に、「猫」というシニフィアンが指し示す実体が存在しているという事実と対応している限りにおいて、真であると判断される。

物理学理論を実在論的に解釈すると、例えば、古典電磁気学で扱う概念である電場や磁場は、空間中に実体として存在していることになる。客観主義的には、人間や理論の存在に依存しない外的な事実が厳然として存在し、理論はそれを記述していると考えたい。

しかし、事実と対応しているものが真であると考えると、同一の事象を定式化する理論が複数同時に存在する場合に問題となる。その場合は、どちらかが真であり、他方は偽としなくてはならなくなるが、数学的に矛盾せずに異なる定式化が存在している場合に、何れかを偽とする判断根拠は存在しない。

道具主義は、理論を観察可能な事実の関連を表現するための道具であると考える。理論内のテクニカルタームや概念が、事実と対応しているかどうかは問われない。数学的に等価で同じ結論を与える異なる定式化が存在するとき、いずれが真でいずれが偽であるのかは問われない。

例えば、ニュートン力学において質量は概念であるので、その実体は問われない。問題は、観察される物体の運動をよく記述できているかどうかである。

道具主義は、観測可能な事実と観測不可能なものを明確に分ける点で問題がある。まず、理論が、観測不可能とされる概念に依存して新しい事実を予言することを説明できない。次に、観測可能な事実と観測不可能なものとを明確に区別することはできない。例えば、電子や原子は長い間理論言語であり、直接観測される対象ではなかった。ニュートン力学にしても、速度・時空間などは観測可能な事実と考えられていたが、相対論によって根本的に異なる定義が与えられ、高度に理論負荷的な概念であることが明らかとなった

実在論に基づく理論評価の試みとして、ポパーの真理内容という考え方が紹介される。つまり、理論T1とT2があるとき、「T1真理内容≧T2真理内容」かつ「T1偽内容≦T2偽内容」であるときに、T1はT2よりも真であるとする。しかしながら、新しいより真である理論に対して過去の理論を評価するときに問題が生じる。例えば、ニュートン力学における、質量・速度・時空間の概念は、相対論によって塗り替えられた。よって、古典的な質量・速度・時空間の概念に依存する古典力学が含む真内容はゼロとなってしまう。これは、相対論よりも真である新理論が登場した際には、相対論が含む真内容はゼロとなってしまうことを意味しており、客観的な評価基準としては使えない

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