ここから本文です

平安時代前期の服装について教えて下さい。 伴大納言絵詞を見ると、狩衣や、直...

ear********さん

2016/7/1719:44:39

平安時代前期の服装について教えて下さい。

伴大納言絵詞を見ると、狩衣や、直衣と思われる袖の大きな衣装を来た貴族たちが描かれており、伴大納言の事件があった平安時代前期の服装は、平安

時代中期から後期の服装と同じようなものであったように思われました。

しかしその後調べてみると、平安時代前期の服装は奈良時代に近く、直衣や束帯といった袖の大きな平安時代の衣装として代表的なものは平安時代中期以降に現れたと資料にありました。

国風文化の成立が10世紀頃なことからも平安前期はやはり奈良時代に近い服装だったのでしょうか?当時の服装などについて具体的に教えて下さい。よろしくお願いいたします。

閲覧数:
804
回答数:
1
お礼:
50枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

udo********さん

編集あり2016/7/1723:59:16

平安時代前期は日本の服飾史の中でも特に分かっていないことが多い時代です。
奈良時代には正倉院という奇跡的なタイムカプセルがありますし、基本的に唐代の衣服をそのままに近い形で移入させましたから、ある程度は中国服飾史の研究結果を援用できます。(逆に正倉院に残る衣服は中国服飾史の資料でもあります)

平安時代後期〜末期になれば絵巻物などの絵画資料や実際の遺物(ごく少数ながら)があるのですが、平安時代前期の絵画といえば仏画ばかりですし、遺物なんか一つもありません。肖像画にしても俗人を描くという発想はなく、高僧などに限られます。奈良時代の正倉院文書には“大大論”のような落書きイラストが残っていますが、平安時代前期には落書きイラストすら残っていません。源氏物語のような小説もまだなく、有職故実の概念もまだないので服装を記録した貴族の日記もほぼ皆無です。発掘による出土品も、服飾についてはほとんどありません。そもそも平城京は京都市の真下なので大々的に掘り返せませんし、布帛は貴重なのでボロボロになるまで徹底的に使いまわされたことでしょう(昭和のころまで古い布は最後はオムツや雑巾として使うのが普通でした)。
歴史書に遺されたわずかな記載や、袖の幅などを定めた法律文書、服の調製に必要とされた布の長さの記録などを元に類推しながら当時の服装を復元することになります。

ただ、唯一例外的に当時の服装を偲ぶことができるのは、この頃から作られ始めた神像彫刻です。神像は各地の神社に祀られ、あるいは忘れ去られ放置されていました。多くの神像は神の姿を当時の貴族や僧侶の姿で表現しましたから、平安時代前期の神像を見れば当時の服装をビジュアル的に理解できるというわけです。
ただしこれにも問題があります。神像は基本的に修復をしなかったようなので傷みが激しく、その多くが虫喰いなどでボロボロです。また、ごく初期の神像は仏像の影響が強くリアル志向なのですが、徐々に単純化・抽象化されてディテールがわからなくなってしまいました。ちょうど唐風から国風へ移り変わる頃に神像もディテールが無くなってしまいます。

さて、わからないとばかり言っていても仕方ないので、多少わかる範囲でお話しします。
平安時代の初期の貴族層はほぼ唐の服装と言って良いでしょう。男性貴族や官人たちは頭には幞頭をかぶり、その幞頭の後ろには二筋の脚を垂らしていました。幞頭の素材は紗という絹織物で、薄く漆を塗ってあります。頭上の髻には巾子(こじ)という籠の様なものを被せてその上から幞頭を被り、巾子の根元を紐で括ります。この結び余りが脚で、後ろに垂れ下がるのです。この脚は、時代が下るとだんだん長く太くなり、尖っていた先は丸くなりました。これがやがて冠の纓(えい)になります。(ちなみに纓というのは本来は冠の顎紐の意味で、日本人が意味を勘違いしてたみたいです)幞頭本体の左右にも紐があり、これは頭上で結びました。基本的には奈良時代と同じです。
朝服の袍(上着)は高い盤領(学生服の詰襟みたに立った襟。平安時代前期は襟がとても高く、中期〜後期になるとアゴのあたりだけ襟が低くなります)、袖は筒袖で袖幅はまだあまり太くはありません(太くするなという法令が時々出ています)。お腹のところを革ベルトでとめています(バックルは今のベルトと同じ構造です)。ベルトの背中側には綺麗な石や金銀で飾られています。この頃の縫腋袍の襴は入襴といって、のちの束帯の袍などで見られる蟻先のところが飛び出さず、プリーツ状でした。今でもお坊さんの着物では裾のところが入襴だったりします。
あと、国風化以降の袍との大きな違いは、この頃の袍は着丈だったことです。おはしょりをせずにそのまま着ていたと思われます。おはしょりのための工夫である格袋(かくぶくろ、はこえ)という巨大なポケットみたいな構造物はまだありません。(この余計な工夫のせいで束帯は一人で着られなくなったんです…)

平安時代前期の男性の服装多少緩やかな程度で基本的に奈良時代と同じですが、女性は平安時代前期でも髪型などに変化が出てきました。頭上に髻を作るのは奈良時代と同じですが、髪を後ろと左右に長く垂らし、それを頭上で結い上げるようになったのです。奈良時代と同様に衣(きぬ)を何枚か重ね着し、その上から袖のない背子(唐衣)を着ました。衣の結び紐を唐衣の胸元から前に長く垂らすのがおしゃれだったようです。
下半身は袴を履いた上から今で言うロングスカートの裳を着けました。まだこの段階での裳は、十二単の裳のように背中側だけに付くのではなく、ちゃんとスカートだったと考えられます。この裳はとても長かったので出歩く時は先の反り返ったクツ(舃)を履かないと裾を踏みつけてしまい歩けません。奈良時代のように、唐風の靴を履き椅子に腰掛ける生活から、裸足で畳に座る生活へと習慣が変わるにつれ、裳の前だけを短くして裾を踏まないように工夫されるようになりました。やがて裳は背中側だけに付くようになったと思われます。(今でも裳には、「頒幅(あがちの)」という前だけ短くした頃の痕跡があります)

ふう、文字でいろいろ説明を試みましたが、中々難しいですね。実際に平安時代前期の神像をご覧頂くのが一番と思い直しました。

松尾大社の男神像と女神像を提示します。九世紀頃の作だそうです。
まだまだかなり唐風だとお分かりいただけるかと思います。女神像は髪型に特徴があります。女神像が左衽(左前)なのはわざと古式な表現をすることで人間とは違う聖なる存在であることを示しているんだとか(日本の着物が右衽で統一されたのは719年です。神様はその前から存在したってことなんでしょうね)。

文化の唐風化は平安時代初期の嵯峨朝に頂点を迎え、その後徐々に弛緩していきます。それでも宇多朝・醍醐朝初期の頃までは基本的に唐を規範としていましたが、遣唐使の廃止や唐の滅亡を迎えたことでその後一気に国風化しました。醍醐朝後期から朱雀朝、村上朝にかけて服飾の大変革があったことは確かなのですが、その詳細は資料不足のためわかりません。

長いばかりで締まりのない内容になり恐縮です。
何かの参考になれば幸いです。

平安時代前期は日本の服飾史の中でも特に分かっていないことが多い時代です。...

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2016/7/24 12:22:48

大変丁寧な解説ありがとうございます。是非参考にさせていただきます。自分でも調べて見ましたが詳しいことがわかりにくい時代のようですね。ご回答頂きありがとうございました。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる