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キリスト教での「汝の隣人を愛せよ」ってどういう意味ですか? ご回答お願いたします。

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V・Eフランクルってご存知ですか?『我々が人生を問うのではなくて、人生に問われているのだ』と、言われた方で、強制収容所を4回替わり、(一回入ったら90%の確率で死んだ)(で、0.1の4乗の確率で生き残った方)人間の極限状態を体験した精神医です。当時の心理学では人間が極限状態に追いやられたら、『理性がなくなり、動物と同じ行動をとる』と言われてました。しかし、彼が目にしたのはその逆だったのです。死に到る時、『殆どの方は聖人だった』と述べています。彼はこの状態を『態度価値』と名付けました。アガペー(無私の愛)を実践したくなるのです。その結果、彼らは、安らかに人生を全う出来たのです。イエスは2000年前にこの事を知っていた様です。極限状態に陥らなくても、アガペーを実践する事が、自分の人生において、いかに有意義か、且つ、充実感を持つか、教えて呉れたのです。お金持ちがよくする、ボランティアではありません。自分の身が切られる思いで行う事です。ボランティアでは、軽い偽善を覚えます。志賀直哉の『小僧の神様』と言う短編を読むとその辺りが理解し易いかと存じます。マザー・テレサも『残り物を与えるな』と言っています。ご質問の内容はキリスト教のベースです。他に『もっとも小さきものが一番偉い』(彼らに奉仕せよ)等、新約聖書には載っています。旧約はお勧めしませんが、(隣人を愛し敵を憎め、と言っている)新約は含蓄のある本かと存じます。今の聖書は文語体(汝、等の言葉)ではありませんので、読み易いかと存じます。フランクルに関しては、『死と愛』(少し、難しいですが)をお勧めします。

私は、人は物質であり、心も個々の肉体にあるもので、抽象ではなく実物であると見ます。 今日死ねば、明日は焼かれて一片の灰と化す、瞬間・一回の人生である事を実感します。 つまり、生きている今、熱い心が湧く日々こそが人生であり、空しい愛を語るのは愚かです。 人が互いに必要とし合い、互いに活かし合うことが「愛」の源であって、実物であるべきです。 人は目も合わさず、言葉も交わさず、喜びも悲しみも交わさない虚しさを知っていますよね。 生きている実感を分かち合うことが・愛・です、それが始まりですよと、イエス様は仰るのです。

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2008/5/3 22:25(編集あり)

馬鹿ばっかりですね。 キリストは万人の持つ、もののとらえ方、考え方のどれが絶対的に正しいということが出来ない、ということに気づいていました。 あなたに理解できない考え方があって、あなたの感情がいくらそれを否定しようとしても、あなたはそれを否定してはならないのです。(あなたの考え方が正しい、とは誰にも、たとえ大勢が同じ考えであっても、言えないからです。) あなたはただその理解不能のムカつく考えの存在を認めるほかありません。そういう考えを持つ人間がいることを認める他ないのです。 世界のすべての人間がお互いを理解することは不可能でしょう。(これは生物の多様性の性質上、あるいは人の精神が完全に独立な以上、不可能です) が、お互いの考えを(例え理解不能なトンチキな考えであっても)尊重し、認め合うことこそが人間がとるべき道であり、調和を成す唯一の手段である、と彼は言ったのです。 認め合うことがすなわち愛ですね。この考えが根底にあったからこそ彼は自身を迫害したものに対しても自身の感情を吐き出すことなく、彼らの存在とその行動を認めています。(分かっていてもなかなかできることではありません。聖人と言われるのはここらへんからでしょうね)人ではなく罪を憎む、というのもこの考えが根底にあっての言葉です。 こんな程度の考えは現代社会においては至極当然のメンタリティだと思ってましたよ。

汝 = あなた 隣人 = 隣の人、他人(隣の家の人・隣の町の人・隣の国の人) 愛せよ = 愛しなさい(愛は恋愛ではなく人間愛の意) 汝の隣人を愛せよ = あなたに関わるすべての人を大切にしなさい。