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片桐且元は豊臣を追われたあと、徳川方に就き秀頼の隠れ場所を密告したりするのは...

zte********さん

2016/10/1009:38:12

片桐且元は豊臣を追われたあと、徳川方に就き秀頼の隠れ場所を密告したりするのは、どういう心境なんですか? 豊臣方に対して復讐や嫌がらせですか?復讐や恨みなければ徳川方についてもおとなし

くして豊臣方に関しては関わらないか、出家してるはずです。

真田丸では大坂城の最期で片桐且元はどんな対応しますか?

ちなみに大坂城で最後まで仕えて自害せず生き残りできた武将や浪人で後にどこかで士官させてもらったのは誰かいてますか?

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bou********さん

2016/10/1011:47:18

且元は鐘銘事件に絡んで、
永年奉公していた豊臣家から
命を狙われ追放される憂き目に遭ったことから
多少の怨みはあったと思いますし、

秀頼の温情で無事領地に生還できたものの、
大坂城からさほど遠くない場所ですので、
いつ豊臣の追っ手が攻めてくるか
分からない状況であれば、
武家にとって最も大切な
自家を存続させるためには
家康に帰属するほかなかったのでしょう。

家康に帰属した以上今度は逆に
秀頼らの居場所を告げる以外に
徳川幕府から自家を守る選択肢は
且元にはなかったといえます。
だからそうしたのでしょう。

ただ豊臣家が滅亡したあと、
自家の存続の代償にかつての主家を滅ぼした
やはり良心の呵責に苛まれて
自害するほか選択肢はなかったのでしょう。

且元は戦国武将として
決して無能ではなかったのでしょうが、
必須条件だった狡猾さが欠けていた気がします。

且元が秀頼一行の居場所を報告するのは
信繁の死後の事ですから、
今回の真田丸ではそこまで描かれることなく、
「彼は大坂夏の陣の20日後自害した」
というナレ死になると思います。

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axy********さん

2016/10/1112:08:44

『山本日記』によりと大野治長が且元に秀頼や淀殿が山里丸にいることを知らせてきたのと共に、彼らの助命嘆願の依頼。


本人は赦免された者(子は除く)

伊東長実(備中岡田藩初代藩主)
殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、この処置は異例であり、スパイ的な活動を行っていたのではないかとも考えられている。

細川元勝
大坂の陣では豊臣氏の親軍として戦うが、戦後は織田家などの親族の徳川家への進言により助命され、始めは細川家と縁の深い京都竜安寺に蟄居した。その後、姉妹の円光院が秋田実季に嫁いでいた縁で、常陸宍戸藩の秋田氏に客将として迎えられた。長男の義元は秋田氏が移封された陸奥三春藩に仕え、家老である年寄衆より上席として、大老または城代として代々重職を勤めた。

織田昌澄(信長弟・織田信行流)
大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、旧君藤堂高虎のとりなしを受けて徳川家康に助命された。以後、剃髪して道半斎と号する。
元和4年(1618年)11月、将軍徳川秀忠に旗本として召し抱えられ、近江甲賀郡内などで2000石を与えられる。

真木島昭光
大坂の陣を生き残り、細川忠興や加藤嘉明らの嘆願により助命された。以降は細川氏に仕え、1,000石を給されて元和9年(1623年)から中津城の留守居役を勤めた。

新宮行朝
大和国で松倉重政軍に捕らえられて捕虜となってしまう。その後、三弟の堀内氏久の千姫救出の功により赦免され、伊勢国津藩主藤堂高虎の家臣となったという。

北川宣勝
大坂城落城後は山川賢信と共に八幡滝本坊に隠れたがのちに投降、命は助けられた。
徳川家康の死後は大村純頼に仕えた。

山川賢信
北川宣勝と共に八幡滝本坊に隠れたが、やがて自首した。徳川家康に罪を許され、その後は平戸藩主松浦隆信の家臣となった。

織田長益(有楽斎)・信長の弟
織田頼長(長益次男)
大坂退去後は京都に隠棲し隠居料として1万石。子孫はさりげなく旗本や尾張徳川家につかえる。

shi********さん

2016/10/1020:29:02

片桐且元氏は,旧主豊臣秀吉氏の遺言などにより,若い世嗣豊臣秀頼氏の後見人や近習となり,豊臣氏の家老として,最後まで,本当に頑張った方などだと,最近思います..豊臣氏付きの家老となったのは,関ヶ原の戦いで,西軍には付かず,人質を出して,徳川家康氏への背心の無いことを示したことから,戦後加増された後,徳川家康氏に抜擢されたようですが,老獪な権力者などの徳川家康氏への恩義もある中,豊臣秀頼氏を守り,豊臣氏と徳川幕府との間に立って,調整したり,動き回るのも,大坂城の淀殿は,気が強く,何より,淀殿の乳母子の大野治長氏や,豊臣秀頼氏の乳兄弟の渡辺糺氏や木村重成氏などが台頭し,権力を持っていたことは,長老格の遺臣;片桐且元氏も,苦戦していたのではないでしょうか‥10月9日の『真田丸』のエピソードでも,片桐且元氏は,最終的に,徳川家康氏側の豊臣氏討伐への名分や口実を作ってしまったわけですが,腐心された片桐氏をよそに,淀殿の側近の上臈;大蔵卿の局の進言により,淀殿母子を始め,大野治長氏や渡辺糺氏や木村重成氏などの近臣達に,徳川家康氏への挙兵などを決議され,片桐氏は,自身の暗殺を,同じく,豊臣秀吉氏時代の遺臣などの織田信雄氏から知らされ,自邸に引きこもられたようですが,その間にも,片桐氏は,豊臣氏側に,人質を差し出し,自身の疑いなどを晴らそうとしましたが,淀殿母子の怒りは,収まらなかったようです..片桐氏も,当時の徳川将軍家の勢いに逆らい,生き残ることなどは,無理だと感じていたのかもしれませんし,大坂の陣の直後,病死されたようですので,いろいろ悩んでいたのかもしれません..ちなみに,近江浅井氏の遺児で,庶子だったらしい浅井喜八郎氏は,豊臣秀勝氏や豊臣秀長氏などに仕えた後,大坂の陣で,姉の淀殿の居る大坂城に入り,参戦したようですが,後に逃れて,淀殿の妹の初(常高院)を頼り,以後,京極氏に仕えたようです..

2016/10/1012:35:11

家康に庇護を頼む以上
要求は断れないでしょう
しかし助命も請うてますからね
彼なりに相当葛藤があったと思います
そのため自害しています

武将クラスで生き残った人を知りません
行方不明は何人かいます
浪人クラスなら名が残ってないだけで
いると思います

nor********さん

2016/10/1011:31:55

確かに一行の居場所を知らせたのは且元ですが

同時に助命嘆願もしていますね

本来徳川方についたのですから

勝手知ったる城内の様子を知らせるのは当たり前です

kat********さん

2016/10/1011:08:28

片桐がしたこと武士の風上にも置けない所業です。

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