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三国志の蜀(劉備勢力)の指導者が劉秀(光武帝)なら中国を統一出来たと思います...

s07********さん

2016/10/1801:21:32

三国志の蜀(劉備勢力)の指導者が劉秀(光武帝)なら中国を統一出来たと思いますか

どのタイミングで指導者やっているかにもよりますが
①徐州に本拠地を構えている時

②劉備が劉表から荊州を譲り受ける打診をした時
③諸葛孔明を配下にした時
④劉備の入蜀時

統一出来るとしたら上記のようなパターンがあると思いますが
どうなるでしょうか

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2016/10/2022:46:42

光武帝の強みは、まず、彼自身の生まれ持った性質があります。
たとえば、血筋の良さ(歴とした皇族の末裔)がそうですし、都の太学で学べ、地元の豪族たちと婚姻関係を結べるくらいには大きな豪族の家の出でもあります。

この時点で劉備に勝ります。劉備の血筋は胡散臭いですし、大学者の盧植の門下生とはいえ、地元の豪族との婚姻関係は記録からは見えません。それどころか、どんどん地元から離れて行った先で勢力を拡大しているので、地元ではつまはじき者だったのかもしれません。光武帝は、皇帝になってから地元に凱旋して、一族のおばあさんたちと普通に昔語りができるくらいには、育ちがいいです。
曹操も、朝廷の高官の家の出であり、地元の豪族と通婚できる(夏侯氏や丁氏)くらいの豪族であり、自分で兵法書に注釈が入れられるくらいの学識があります。

それから、光武帝は、同じ陣営にいた更始帝らに兄を殺されたために更始帝から距離をとり、都から離れて河北平定のために赴任していくのですが、その際、烏桓突騎という烏桓族の精鋭騎馬部隊を指揮下におさめます。
その一部を、「雲台二十八将」のナンバー2である呉漢が一貫して率いています。これは曹操が烏丸突騎を採用して強勢をほこったことと同様です。

また、軍事力の観点でもうひとつ。銅馬という勢力を吸収したため、「銅馬帝」と称されたこともあるのが光武帝です。これも、青州兵を吸収して、飛躍の足掛かりとした曹操と同様です。
これらは、光武帝が、人口が多く生産力のある中原付近にずっといたこととの相乗効果があります。曹操も、ずっと中原にいました。

曹操と光武帝はよく似ている(というか、光武帝の故事を、一部曹操が模倣している)ものの、大きく違うのは、光武帝は天下を統一し、曹操は出来ずに終わった点です。

以上のことは裏を返せば、劉備はこういったものをすべて曹操に取られていたから、流れに流れて南西の隅っこまでいったわけです。

つまり、もし劉備の人生を光武帝がなぞるのであれば、劉備と曹操と光武帝の能力が全く同じだと仮定した場合であっても、100%の光武帝に対し、30%以下くらいしか本来の実力を出せない光武帝が挑むことになります。

自分より4倍くらい強い自分に、勝てますかね。

たとえ光武帝のほうが劉備や曹操より優秀だったとしても、光武帝を支えた烏桓突騎も銅馬の兵力も、土地のアドバンテージもないのであれば、なんぼなんでも無理でしょう。アメリカが強いのは、大統領が強いからではありませんよね。もちろん、大統領の優秀さは大切ですが、トップの能力だけで国の強さは決まりません。

と、いうことで、①~④まで、どれであっても無理ではないか、と私は思います。

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ベストアンサー以外の回答

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ツネオさん

2016/10/2205:50:02

④くらいというのが正直な感想です。
あとは無理です。
④以外は曹操と弱小勢力の劉備として
対峙する局面だからです。
④も漢中を平定して、荊州方面から
関羽に樊城を孟達に上庸を攻撃、
しかるのちに呉国との和平維持が
前提です。

そして漢中10万の兵力で長安争奪戦と
なれば歴史は変わったでしょう。
諸葛亮の卓見に驚かされます。

sai********さん

2016/10/2002:14:26

光武帝に、彼を支えた功臣全員が生きていたなら可能性はありますね。光武帝ひとりでは、絶対無理です。

それと、劉備勢力でその可能性があるのは劉備が漢中を制覇した時しかないと思います。後はどれも詰んでいます。

2016/10/1808:33:18

時代背景やそれぞれのバックボーンが違うので恐らく統一は無理です。

最も大きな時代背景の違いは、民衆反乱の規模です。
劉秀の時代は新・王莽の悪政によって、ほぼ全階層の民衆が一斉に蜂起しました。
後漢末は中央政府の支配から独立した各豪族たちの争いとなり、一般民衆はこの動乱から欠け落ちていました。
ですから各地で戦いがたくさんあった割には、動員兵力は他の時代の動乱よりも常に少ない状態です。
赤壁の時の曹操ですら、十万を超えていたかいないか微妙なとこ。

前漢末の人口推計は約六千万弱。
後漢初、光武帝の頃は約二千万。
戸籍の上では1/3に減りましたが、これくらいはいたという事です。

しかし後漢末、人口は5600万まで回復しますが動乱を経て、三国時代に突入。
魏・呉・蜀の戸籍登録人口は全部合わせても1000万足らずとなります。

諸説ありますが人口推計の基本は当時の徴税記録(主に戸籍)です。
必ずしも実人口ではなく、政府が徴税していた人口です。
後漢末の群雄割拠によって豪族たちは土地の私有化、人民の私有化を図った事によって、三国はそれぞれ人口不足で悩んだわけです。

恐らく実数としてはその何倍も民衆はいたでしょう。
しかし政府が掌握できていたのはその程度しかおらず、私兵を持っている豪族に常に足元を脅かされていたのが三国時代の特徴です。
その人口不足による兵力不足を補うために周辺異民族を移住させますが、それが後に五胡十六国の原因となりました。
さらに、南北朝時代を通じて豪族たちは貴族化し、南朝では政変(禅譲)によって王朝が次々と交代するわけです。

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