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銀の四角いお金ですが、かなり便利だったのでしょうか。 豆板銀で銭100文から1...

dyw********さん

2016/11/523:28:45

銀の四角いお金ですが、かなり便利だったのでしょうか。
豆板銀で銭100文から150文くらいの値打ちだったようですが、イチイチ計るのも面倒くさいかったのでしょうか。

一分金しかなかったところから、二朱銀ができて一分銀につながっていきますが、小判と銭の中間の価値で便利だったのでしょうか。
そのまま支払いにも使えて、銭でお釣りももらえるのですね。

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dai********さん

編集あり2016/11/613:20:29

江戸時代、大判・五両判・小判以外の金貨では一分金の他に文政元年(1818)初発行の二分金、元禄十年(1697)初発行の二朱金、文政七年(1824)初発行の一朱金が存在していました。


江戸の金貨不足と幣制統一化対策として明和九年(1772)幕府は明和南鐐二朱銀と言う初の金貨額面表示の銀貨を発行しましたが、これに倣い文政期には断続的に貨幣の改鋳、新定が行われ、文政七年(1824)には一朱金、文政十二年には一朱銀が新定されました。そして天保八年(1837)金貨不足を理由に一分銀が新定。明治初年まで断続的に発行されました。

一分銀が新定される2年前の天保六年、金銀貨で最低額のものは一朱金と一朱銀でしたが、それが江戸庶民の生活上では使い易い最高単位でした。ところが、その一朱金銀、当時の銭相場を一両=六貫五百文とする四百六文強に当たりますから、まだまだ日常生活には高額でした。
一分銀は江戸幕府が終焉する約30年前に初発行されたもので江戸時代を通じて存在していたのではありません。

  • 質問者

    dyw********さん

    2016/11/623:09:53

    鬼平がよく渡していますよね。
    時代交渉をうるさく言うとすれば、鬼平の時代なら南鐐二朱でしょうか。
    8片を以って小判一両に換えると書いてますね。南鐐二朱は実は二朱とは名乗っていないところも味噌なのですね。二朱銀でありながら初めは二朱とは名乗らなかったのですね。金の貨幣体系に銀でできた貨幣を組み込むのはそれだけ時間が必要だったのですね。便利なので南鐐二朱も成功しますし、その後の一朱銀、二朱銀も成功するのでしょうか?
    南鐐二朱からすると、だいぶ軽くなってきますけれど。

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qqm********さん

2016/11/523:40:47

1両 4000文
1分 1000文
1朱 250文
天保銭 100文

高額の取引には、銀貨が使われたでしょうが、庶民が蕎麦、寿司を食べるのには、1文銭、4文銭ですよ。

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