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たられば論ですが、大坂夏の陣のことで質問です。和睦する前に徳川側が大阪城に大...

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ID非公開さん

2016/12/212:49:31

たられば論ですが、大坂夏の陣のことで質問です。和睦する前に徳川側が大阪城に大砲を撃って女たちが大勢死にました。茶々の部屋のあたりを狙ったらしいですが、もし茶々や大蔵卿が死んでいたら豊臣にとって夏の陣が

有利に進んだのでしょうか。

この一件で茶々がビビり和睦に決め、女が話合い、丸め込まれ真田丸、堀を埋めて壊した。夏の陣の最中、兵隊の士気が上がるように秀頼を出そうとすると茶々の猛反対に合い結局負ける。そもそも最初から色々邪魔されてたが、あの家康の大砲の攻撃が最後のチャンスというか死んでくれていたらと思ってしまいます。

籠城を決めたじてんで負けが決まってたのか。幸村だけが頭が良くてもトップがバカだったのが運の尽き。家康はよくまとまっていたのが勝ちに繋がったのか。そもそも兵の数が違い過ぎたのか。
意見下さい。

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2016/12/215:57:56

>籠城を決めたじてんで負けが決まってたのか

そういう事ですね。
大坂冬の陣の講和は砲撃にびびった淀殿が秀頼にすすめたわけですが、これはあくまでキッカケ。
秀頼は「一度戦いを始めてしまったのに今更講和なんてみっともなくてできない」と拒否し続けたといいます。
それでも講和に同意したのは、浪人衆までもが講和をすすめたからです。
浪人衆にとっては武器弾薬が無ければ戦闘を継続できませんし、外部からの援軍がない以上は絶対勝てない事もわかっています。
だから補給を行って再戦できるように戦略的な手段として講和に賛成しました。

ちなみに真田丸のドラマでは、この講和のくだりはかなり脚色というか改変されていますよ。
二の丸や三の丸の破却は豊臣方が申し出たことですし、少なくとも外堀の埋め立ては双方の合意事項です。

また、豊臣方はまとまりがなく、浪人衆ですら派閥に別れてまとまりがありませんでした。
ドラマでは当然主役の真田幸村が浪人衆の取りまとめのようになっていますが、史実ではそんな形跡はありません。
むしろ高名な後藤基次が浪人衆の代表格扱いです。(必ずしもそうではありませんが)
また、とかく揉めがちな浪人衆と譜代衆の間を取り持ったのは毛利勝永で、その勝永は後藤は自分の功ばかり、真田・長宗我部は自分の郎党とばかり話すばかり、德川殿が調略をかけたら大坂城は簡単に落ちるだろうとボヤいていたという証言が残っています。(毛利勝永組下で後に尾張徳川家に仕えた湯田某の話し)

浪人衆の出撃策も上手くいったかどうかは微妙で、実際に夏の陣では豊臣側の連携が悪く、後藤基次は来るはずの後詰が来なくて孤立死。
遅れて到着した薄田兼相ら譜代衆は壊滅。
更に遅れて到着した真田・毛利・明石らはそのまま撤退せざるを得ませんでした。
この時も誰が殿をするかケンカになりかけ、呆れた毛利勝永らがさっさと撤退しました。
別方面の長宗我部隊は藤堂隊を圧倒しながら、木村重成隊が井伊直孝によって壊滅させられた事によって撤退。

とこんな風に、すごいチグハグな戦いをしています。

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izu********さん

2016/12/213:01:13

幕府方の大砲もそれほど精度は良くないので、まぐれ当たりです。大坂方は幕府方と対等ではなく、反乱を起こした暴力団に過ぎないので、勝ちは有り得ません。家康や秀忠が討ち取られても、殉職に過ぎず、幕府は滅びません。
淀君は徳川の家来になるつもりが無く、秀頼もそんな淀君の意向を尊重する気なので、滅びるしかないのです。
幕府は不逞の浪人を大阪城に集めて一網打尽とするつもりなので、大坂の陣が大規模になったのです。

2016/12/212:58:49

豊臣家を屈服させれば良かった戦、牢人も駆逐出来ればと考え勝ちにこだわった。

大阪の陣もまだまだ見えない何かはあるだろう。たがら俺は虚しい論議は覗いて見ていたい。

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