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新田義貞は、何処の戦で戦死をしたのですか?

mat********さん

2017/3/612:18:38

新田義貞は、何処の戦で戦死をしたのですか?

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2017/3/718:41:53

1336年新田義貞は楠正成とともに湊川の戦を戦ったが破れ、正成は自害した。
都に戻った義貞は後醍醐天皇らと合流、その後数ヶ月に渡って足利軍と教徒の攻防戦を戦った。
この攻防戦で南朝方は名和長年、千種忠顕を失いますます追い込まれていった。
この状況に後醍醐天皇らは義貞に内緒で講和を進め、これを知った義貞と後醍醐天皇は決裂寸前にまでなってしまう。
結局南朝軍は新田軍とそれ以外の後醍醐天皇軍に事実上分裂し、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦、新田義貞は恒良親王、尊良親王と共に北陸に向かい、敦賀金ヶ崎城に本営を構えた。
(尚、後醍醐天皇と足利尊氏の和睦はもろくも年内に瓦解している)
後醍醐天皇と和睦した足利尊氏は新田討伐に力を注ぎ、金ヶ崎城は猛攻をうけ、1337年3月に落城した。
この時、義貞の嫡男の新田義顕は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となったが、義貞本人は逃げ延び再起を図った。
一方尊氏は義貞を討ち取ったと思い込んでおり、北陸の軍の大半を引き上げさせた。
義貞は杣山城を拠点として再起し、尊氏と決裂していた南朝軍は奥州の北畠顕家が上洛の軍を起こし、義貞の次男新田義興と、南朝に帰参した北条時行がこれに合流し勢いを増し美濃青野で足利軍に快勝した。
しかしあくまで南朝軍の軍のトップを自認する顕家は越前の義貞に合流せず、1338年の頭には伊勢から大和に入った。
大和に入った後の顕家軍は苦戦するようになって、5月22日に和泉石津の戦いで顕家が戦死してしまう。

一方の義貞は越前の大半を制圧して、のこる斯波高経を追討しようと越後の味方と連携してこれを撃破せんとしていた。
この際にまず足利方の平泉寺の衆徒が篭る藤島城を攻めた。
義貞は最前線で藤島城が落ちるところを確認しようと少数かつ軽装で藤島城で向ったところ、黒丸城から斯波高経の軍の一部が藤島城救援の為に出撃したのに出くわしてしまった。
結果、灯明寺畷という水田地帯の真ん中で盾も無く数倍の敵に囲まれ、射撃の的のような形になり、義貞本人も眉間に矢を受けて、刹那に首をかききって自害したされる。
閏7月2日にのことであった。
討ち取った武将もまさか相手が敵の総大将だとは思わなかったが、斯波高経立会いの下で所持品や首を改めたところ、義貞本人であったため驚愕したという。

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