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石田三成は何故、襲撃されたのですか???

tri********さん

2017/3/2106:08:01

石田三成は何故、襲撃されたのですか???

秀吉死後に加藤清正、福島正則、蜂須賀家政、黒田長政などなど
七将かそれ以上か解りませんが
豊臣恩顧の大名たちに襲撃され蟄居かた隠居にまで追い詰められています。
よほどですよね?

なぜこんなことをされたのでしょうか?
秀吉生前時に虎の威を被る狐のような
酷い振る舞いでもしていたのでしょうか?

理由を教えてください。

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ベストアンサーに選ばれた回答

img********さん

2017/3/2316:18:11

前述されているように一般には唐入り時の遺恨により、武断派との対立と思われています

しかし近年では武断派等のくくりはなく、清正・正則なども代官職から出世していった事がわかっていますので、子飼い大名は皆、検地代官職→大名となっています

九州征伐、小田原征伐でも後方支援などで、前線で戦っていません

家康書状から7将のメンバーが前述されていますが、そのなかで確実に唐入りの遺恨と思われるのは

黒田長政・蜂須賀家政

です

前述された三成襲撃後に大老連署による処分撤回状によるものですが、秀吉の元に伺候して起請文などの公式文書を作成していた西笑承兌の前田利家宛書状(慶長3年5月20日付)で裏付けが取れます

「福原右馬介(長堯)と熊谷半次(直盛)らが申上げ、蜂須賀阿波守(家政)と黒田甲斐守(長政)は御せっかんで御前に出られず~」

しかしここでは、清正や高虎が叱責や譴責になったことは書かれておらず、又他国内史料にも見いだせないので、清正・高虎の唐入りの遺恨の根拠は低いです

反対に清正にかんしては、同じく西笑承兌書状(慶長3年6月27日付)上杉景勝宛で
「高麗の事は加藤主計(清正)よりの扱い」となっていますので、叱責等の処分があったとしても秀吉生前に名誉回復がされています


つまり、唐入り関係の遺恨は黒田長政・蜂須賀家政しか見当たりません

資料によると家康私婚問題時前後や三成達による家康暗殺計画などで、親家康大名の家康邸参集は藤堂高虎が一任されていたようです

7将は家康邸に参集+利家との和睦に動いた親家康派の大名です(清正・忠興・幸長も家康邸に日参したと書かれています)

半数は私婚問題に関わっています(家政・長政・正則・清正)

秀吉遺言によって政務総覧の家康を暗殺する計画を立てる危ない奴と認定されたのではないでしょうか

因みに家康私婚問題は、秀吉遺言覚書で

諸大名間の婚姻を5大老で談合する

5大老間の婚姻を談合する

の2通りの解釈があり、まだどちらとも確定されていません

そして福島正則は伊達家資料によると「婚姻は内府様から来た話ではなく、太閤の縁戚として秀頼様の為になる」といっております

実際の所、秀吉が進めてきた家康&徳川家との縁組を強化するものであり、秀頼+豊臣家を蔑ろにする事態ではありません

派閥をつくるというなら、西軍首脳陣(奉行衆・輝元)のほうが、秀吉死後すぐの慶長3年8月28日に起請文を交わしております

秀吉遺言違反である

徒党を組む

大老との隔心(家康を仮想敵としている)

です

三成が唐入りから帰国した武将達を茶会に誘ったという逸話も、派閥を作っているといえます

清正が一蹴した事は資料には見えませんが、博多下向後「宗湛日記」には連日のように茶会に参加していますので、派閥を作っていたと言えるでしょう

秀吉晩年には、九州への転封話もでており又寺社関係書状からも三成が思うままに出来なくなったと書かれていて政権中枢から外されかけていたと思われます

質問した人からのコメント

2017/3/25 19:34:01

知らないことばかりで驚きました。

秀吉亡き後に自らの派閥を起こそうとしたら
それを食い止めようと他豊臣諸将が
襲撃を仕掛けたのですね。

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

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2017/3/2110:54:07

豊臣秀頼を蔑ろにして豊臣家を乗っ取ろうとしたからです。

石田三成は、家康が秀吉の定めた私婚禁止令に背いたと詰問しましたが、実際には私婚禁止令違反ではありません。
私婚禁止令は、大名が勝手に姻戚を結んではならないとするもので、逆に言えば許可を取れば可能でした。
その許可権者は秀頼ですが、幼少のため家康が代行しており、今でいうところの代理権濫用ですが、違反でも何でもありませんでした。

それを不当に咎めた三成は、家康の代理権を否定するのではなく、秀頼の権能を取り上げて自らの主導する十人衆の合議へと移管しようとしました。

これとよく似た状況が鎌倉幕府の初期にもあり、権限を取り上げられた源頼家はその後殺害されています。

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mag********さん

2017/3/2110:46:05

朝鮮出兵の時、石田三成が秀吉に前方で戦っていた武断派の大名を讒言して武断派が石田三成を恨むようになった。

gpx********さん

2017/3/2108:14:25

一般的には、「加藤清正ら七将は慶長の役の際に三成に抱いた私怨から襲撃に及んだ」と考えられています。

しかしながら、この議論を進めていく上で、襲撃した七名は誰になるのかが問題になります。

実は、七将の内訳は史料によって異なっています。

・『関原始末記』・・・池田輝政、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、加藤清正、加藤嘉明

この七人は『関原軍記大成』や『徳川実記』に受け継がれ、一番有名なものになっています。
ところが、事件当時である慶長四年閏三月五日付で出された家康文書(『譜牒余録』)の宛所は

細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長

の七名となっており、事件の流れの中で登場する人物として考えると、この七名を七将と捉えるのが妥当のようです。

<襲撃の理由>

一つは、蔚山籠城戦(慶長の役)後の処分問題にあったと考えられています。

・慶長二年(1597)十二月二十二日に、竣工を控えた蔚山城を明・朝鮮連合軍が襲い、普請を行っていた浅野幸長や救援に駆けつけた加藤清正籠城して応戦した。翌年正月三日に蜂須賀家政と黒田長政らの援軍が到着し明・朝鮮連合軍を撃退したが、彼らは追撃を行わなかった。

軍目付だった福原長堯(三成の妹婿)らは追撃停止を怠慢として秀吉に弾劾、この結果清正らは譴責を受け、蜂須賀家政と黒田長政に至っては謹慎を命じられたというもの(三成襲撃事件の後、家政と長政の処分が五大老によって撤回され、名誉を回復したことが根拠となっている)。

藤堂高虎は蔚山籠城戦後に蔚山・順天を放棄して戦線を縮小させる案を唱えた一件で、家政・長政・清正らと共に秀吉から譴責を受けている(『看羊録』)。


ここで分かるのは、福島正則と細川忠興はそもそも慶長の役には従軍しておらず、二人は朝鮮出兵とは無関係な点です。
『慶長年中卜斎記』には、「七将は家康に三成の制裁を訴え、家康は七将を宥めた。それに対し七将は、三成が過去に家康を討つ企てをしたことを挙げて家康の同意を得ようとした」と記されています。

つまり、二つめは、日頃三成に反感を持っていた武将が家康に通じる機会を得るため便乗した、と考えられます。

事件そのものは私戦というよりは政争として展開していますので、諸将の思惑がそれぞれ複雑に入り混じっており、一枚岩での行動ではなかったと思われます。

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