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キリスト教を信仰しているとおっしゃっている皆さんはよきサマリア人のたとえをご...

dri********さん

2017/4/117:08:57

キリスト教を信仰しているとおっしゃっている皆さんはよきサマリア人のたとえをご存知だと思います。

ご存知のように「爾の隣人を愛せよ」とある意味正しい答えをした律法学者が、しかし「では隣人とは誰なのですか」という問いに答えて主がお話になった譬えです。
強盗に遭って袋叩きになった後、当時の異国人、異邦人であるサマリア人だけが襲われた人を助け、その人の隣人になりました。

さて、あなたは、このサマリア人のところを私たちの身の回りに置き換えて理解することが許されると思いますか。
あなたを見捨てたのは、日本人の偉い人で、助けた人が韓国人だった場合、韓国人が隣人になり、そういう人を愛すると理解していいですか。
あるいは、司祭や牧師や聖書のことをあれこれ言っている人が何も手を差し伸べないで、仏教徒、創価学会員や幸福の科学の人、さらには知恵袋のクリスチャンが忌み嫌っているカトリックの信者さんが手を差し伸べた場合には、その人を隣人として、そのように愛しますか。

それとも、仏教徒やカトリックはサマリア人とは違うので、隣人にはなりませんか。
袋叩きになって息も絶え絶えで、動く力もない時に仏教徒が「水一杯」を恵んでくれたとしても、彼はやっぱり他人ですか。

誤解を招くことのないように申し上げておきますが、これは別に論争を挑んだり、間違いを指摘しようとしているのではありません。あなたの教会、あなたの宗派、あなたのご理解を教えてください。
またその理解は、あなたの教会で一般的なものですか。その教えは誰かあなたの教会の先導者、指導者によって語られ、あるいはかつて記録されましたか。そうしたことが書いてある本がありますか。

補足福音派さん、聖霊派さん、エホバさんなどのお答えがほしいです。これは「キリストに味方するものだというので水一杯恵んでくれるもの」とは全く別の話でしょうか。
仏教徒がそのとき水一杯恵んでくれたとして、彼はあなたの隣人でしょうか。救われるでしょうか。
あるいは、ひょっとして聖霊派さんやエホバさんの聖書にはサマリア人のたとえなどは載っていないのでしょうか。

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ベストアンサーに選ばれた回答

hey********さん

2017/4/401:41:24

属する宗教・団体とは関係なく、
あなたのことを愛する人こそが
あなたの隣人です。

そんなに難しく考える箇所か?

  • 質問者

    dri********さん

    2017/4/711:19:10

    すみません、多くの人があなたと同じようにお考えになると思いますが、そうではないと主張される方もおいでなのです。

    あなたがご質問なさったらよかったかもしれませんね。
    私が質問すると、誰も質問には答えてくれることなく、何かおぞましいものでも見るように避難するかお説教されるかどちらかですからね。

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nak********さん

2017/4/222:18:12

よきサマリヤ人のたとえは、当時ユダヤ人からさげすまれていたサマリヤ人がイエス様のおっしゃる隣り人を愛しなさいという戒めをユダヤ人以上に守っているということを教えたものでした。ユダヤ人は神の選民としての自負を持った民でした。しかし神の戒めを守っているといいながら肝心な隣り人を愛することをしていませんでした。すべてのユダヤ人がそのような人であったわけではありません。謙遜で真面目で、心から神を愛していたユダヤ人もいました。そのような人は貧しくて目立たない人たちでした。ところが律法学者とかサマリヤ人のように自分は神に人一倍仕えていると考えている人の中の多くが、隣人を愛することを頭でわかっていても実践してはいなかったのです。それをイエス様は戒められたのです。
現代においてもキリスト教を信じている人の中で、同じことが言えることは当然です。良き教えを受けたら実践することが大切なのです。

noa********さん

2017/4/210:59:34

どうやら間違っていたのは私でした。自分がいかに無知なのか思い知らされ恥ずかしく情けない限りです。申し訳ないです。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言う意味の「隣人愛」。
ここのたとえでは「隣人=サマリア人」なので、私たちに置き換えるべきは「サマリア人」ではなくけがをした「ある人」となります。
つまりここのたとえで見えてくることは「どういう人物であろうとあなたの隣人になってくれた人を愛し、受け入れなさい」という事です。

そういうわけで『あなたを見捨てたのは、日本人の偉い人で、助けた人が韓国人だった場合、韓国人が隣人になり、そういう人を愛すると理解していいですか。』については『それでいいと思います。』
また、『あるいは、司祭や牧師や聖書のことをあれこれ言っている人が何も手を差し伸べないで、仏教徒、創価学会員や幸福の科学の人、さらには知恵袋のクリスチャンが忌み嫌っているカトリックの信者さんが手を差し伸べた場合には、その人を隣人として、そのように愛しますか。』については『愛すべきです。』
そして『それとも、仏教徒やカトリックはサマリア人とは違うので、隣人にはなりませんか。 袋叩きになって息も絶え絶えで、動く力もない時に仏教徒が「水一杯」を恵んでくれたとしても、彼はやっぱり他人ですか。』については『他人とするならば隣人愛から逸れてしまいます。』
以上のようになるかと思います。

そしてぜひ覚えていただきたいことがあります。

私たちの隣人それはイエス様だという事です。

イエス様は私たちの身代わりとなって十字架の上で神の怒りを受けてくださいました。その怒りは私たちが受けるべきものでした。こうして救いのみわざが完成し永遠のいのちに至る道が開かれたわけですが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言う「隣人愛」に照らし合わすと「イエス様を愛しなさい」という事につながるわけです。

そうすればここの箇所の全体が見えてきます。
律法学者が尋ねた「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」に対する答えは「隣人愛を実行しなさい」という事でした。
この律法学者を自分に置き換えると、私たちが永遠のいのちを得るには「イエスを愛しなさい」という事になるわけです。

※この見解は今一度あなたから質問を読み直し、調べていくうちに気づかされたことです。なので、まだ個人的見解の域を脱していませんが、この見解が主のみこころに適うものならば、導いてくださった神に感謝します。違うのであれば、どなたかが示してくださることでしょう。

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竹内 臨さん

2017/4/201:59:21

福音派の教会では「隣人とはあなたの周りにいるすべての人です。」というような説明をされていました。
でもある女性が奉仕に加わったとき、それまで楽しそうにしていたのに、みんな急に喋りにくそうになったことに気が付きました。そういえばこの人はいつも一人でいることが多いなとは思っていたのですが、もともとカトリック信者で、プロテスタントの男性と結婚してからその教会に来ていることがわかりました。ただし、原因が元カトリックだからという証拠はありません。

また個人の考え方としては、相手が仏教徒であろうと、エホバの証人であろうと、怪我人は助けます。ただし、その人が知人のペンテコステ・カリスマ派だった場合は救急車を呼ぶ、水の一杯ぐらいは差し上げると思いますが、その後はすぐに立ち去ります。


私は心の弱った子供のために教会に連れて行ったことがありますが、よくなるどころか、ますます酷くなり、学校にも行けなくなりました。それから5年ほど、毎日元気になるように祈り続けたのですが、全く改善されませんでした。
やがてどの教会にも通わなくなり、ある時から「この子に悪いものを送っている人達がいれば、それを止めて下さい。」という祈りに変えました。すると急激によくなっていったのです。
彼らは同じ信者でありながら、弱い者に対して、さらに重い石を背負わせるようなことをしていたのです。なぜ私の子供が狙われたのか、理由は徐々にわかってきましたが、それを書き込むことはできません。

数年前、この知恵袋で「カリスマ派の人と話をしていると、心が重くなってきた。」というような投稿を読んだことがあるのですが、これは本当の話です。

もうあの人達とは極力関わりたくありません。
こんな経験をして、まだ聖徒交わりたいなどと思うでしょうか。

ですので私の場合は、もちろん一般的なものではありません。

テモテへの手紙 第一
4章
1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。


竹内 臨

紙笛さん

2017/4/123:01:16

イエスの譬えは、答えを求めているのではなく、
心を揺り動かすことを意図しているのでは、と思います。

2017/4/122:46:18

「隣人を愛せよ」という教えで、隣人とは誰のことかという問題も、もちろんありますが、もうひとつ大事なことは、「愛する」とはどういうことかということです。

「愛する」という言葉は、日本語でも英語でもそうなのですが、普通には感情の問題になります。ここで誰もがつまづくのです。 どんな人でも、誰か特定の人に対しては、「あんなヤツ、好きになれったって無理だ!」 という思いがあるのが人間です。

でも、聖書で言う「愛」とは、感情の問題ではなく、行為の問題です。「愛にもとづく行動」をとりなさいということです。誰でも好きな人に対しては、親愛な態度で接するし、親切を施すものでしょう。その行為を、相手の好き嫌いに関係なくとるようにしようということなのです。

つまり、キリスト教的にいうと、

「好きになれなくても愛することはできる」

ということです。

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