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「声聞の持戒は菩薩の破戒」というのは、どういう意味でしょうか?

aze********さん

2017/4/3014:20:47

「声聞の持戒は菩薩の破戒」というのは、どういう意味でしょうか?

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viv********さん

2017/5/710:34:23

●声聞と菩薩とでは目標が違う

「釈迦牟尼仏言、声聞持戒、菩薩破戒」というのは、道元禅師の正法眼蔵の三十七品菩提分法の巻にある文です。釈迦牟尼仏言とありますが、「声聞持戒、菩薩破戒」という文は経典には見当たりません。

岩波文庫の正法眼蔵の補注によれば、『大宝積経九十』の以下の経文が根拠のようです。「有聲聞乘持清淨戒。於菩薩乘名大破戒」という言葉を略しているようです。

声聞と菩薩は目指すところが違います。声聞は、解脱をし、二度と生まれないことを誓いますが、菩薩は何度でも生まれ変わって、衆生を救おうと誓っています。目的によって持戒が違うという意味です。


爾時世尊告優波離。汝今當知。聲聞菩薩學清淨戒。所發心所修行異。優波離。有聲聞乘持清淨戒。於菩薩乘名大破戒。有菩薩乘持清淨戒。於聲聞乘名大破戒。云何名爲聲聞乘人雖持淨戒於菩薩乘名大破戒。優波離。聲聞乘人。乃至不應起於一念更受後身。是名聲聞持清淨戒。然於菩薩名大破戒。云何菩薩持清淨戒於聲聞乘名大破戒。菩薩摩訶薩。修行大乘。能於無量阿僧祇劫。堪忍受身不生厭患。是名菩薩持清淨戒。於聲聞乘名大破戒。

その時に世尊はウパーリに告げました。
「よくお聴きなさい。声聞・菩薩は、清浄な戒を学んでいます。しかし、目指すところが違いますから、修行方法が異なります。ウパーリよ。声聞乗が清浄な戒を持つとしても、それは菩薩乗においては大きな破戒です。菩薩乗が清浄な戒を持つとしても、それは声聞乗においては大きな破戒です。なぜ、声聞乗を持つことが菩薩乗においては大破戒なのでしょうか。ウパーリよ。声聞の人は、ないし一念においても、後の世に身を受けると思ってはいけません。これが、声聞の清浄な戒です。しかし、このことは菩薩にとっては大破戒です。なぜ、菩薩が清浄な戒を持つことを声聞乗においては大破戒というのでしょうか。菩薩よ。大乗の修行は、無量阿僧祇劫において、身を受けることを堪忍し、それを嫌いません。これを菩薩の清浄な戒を持つと言います。このことは、声聞乗では大きな破戒です」


以上です。

質問した人からのコメント

2017/5/7 13:02:46

なるほど。
そういう意味でしたか。

ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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hop********さん

2017/5/423:23:45

上座部仏教では通常「声聞Saavaka(弟子)」は、4つ(または8つ)ある悟りの段階にあるAriya-Saavakaの事を指します。 第1段階のSota-Pattiの時点で最長でも7回の輪廻の内に完全な解脱を得るという教義があります。声聞が持戒した時点で菩薩の修行であり戒である「人類全員を解脱させるまで自分は解脱しない」という修行を放棄することになるからではないですか?

ois********さん

2017/5/422:46:25

この文章は忖度しないと意味は通りませんね。

でもその忖度は謬見ですけど。。。

ところで、「声聞」「縁覚」に会ったことのある人は居るのですか?

普通の人にはまず無いでしょうし、天台智顗だって日蓮だって会ったこともないんですよ。。。

(なお、”小乗”は説一切有部のことで現存しませんが、南伝仏教のことを小乗だと見做している人が多いです。しかし、天台智顗も日蓮もパーリも読めなきゃ南伝圏の仏教の実際なんて見たことも聞いたことも無いと思われます)

「菩薩(である我々)は、声聞より上だ、優れている」
まあ、思っている分には良いでしょう。
しかし、これを「教え」として広めたら、それは悪行です。
妄語です。
必要もない偏見を衆生に植え付けています。

(※菩薩の概念は南伝圏にもあり、こちらの方がオリジナルだと思われます。そういうことも天台智顗も日蓮も知らなかったでしょう。ちなみに仏性の概念も南伝仏教=パーリ仏典がオリジナルです)

偏見はもっとも悟りから遠ざけるもののひとつです。

増上慢な態度でもあります。

大乗経を僧院に籠ってしこしこ書いていた人たちは、当時、支持者はほとんど居なかったのです。。。。
(インドで大乗経が書かれだしたのは1世紀頃だとの学説がありますが、在家信者が付いて教団として成立するのは4世紀の頃です。そして、メジャーではなくマイナーな存在でした)

経の創作や論の構築や議論に熱中していた僧は特殊な存在だったのです。
当時、僧の多様化も進んでいました。

”学問”に熱心だった僧は、サンスクリットの素養のある人たち、つまりバラモン階級出身者のエリート、富裕層出身者です。
(19世紀の時点でも、インドの僧や中国の僧の約半数は読み書きが出来ませんでした。当然、経も読めません。論の理解などほど遠いです)

こういったエリート僧たちが、釈尊の定めた質素な暮らしと、庶民に寄り添って生きる生き方を嫌い、仏教を学問化し、そして言い訳として、「衆生救済」の『文言』を経には忍ばせますが、実際には、伝統的で保守的な僧侶たちよりも、衆生を顧みずにエリート道を歩んでいたのが実態だと思いますね。

現在の南伝圏と北伝圏の実態が、如実に真実を顕しています。

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曹源慧能さん

2017/5/422:19:54

菩薩が自分だけの解脱・得道を願い、衆生に対して解脱への施し(教化)をしないことは波羅夷罪になるということです。

sam********さん

2017/5/410:49:28

声聞は煩悩があると解脱できない、
菩薩は煩悩がないと成仏できない。

「須弥山のような(巨大な)我見・我身見が生ずれば菩提心が生ずる」『維摩経』
(スメール サマーン サトカーヤドリシュティムトパーディヤ ボーデヒチッタムトパデヤテー)

煩悩を滅尽して非凡夫になることが解脱、
煩悩具足のまま而凡夫になることが成仏。

釈尊は無煩悩の非凡夫ではない、煩悩具足の而凡夫である。
「疲れた坐りたい、疲れた横になりたい、のどが渇いている水を持ってきてくれ』『ブッダ最後の旅』。

凡夫と【非】凡夫の違いはバカでもわかる。持戒・禁欲・断食・難行・苦行等々、モアペイン モアゲイン、疲れても立ってる、のどが渇いても水を飲まない!!世の流れに逆らってる!!すごい!!聖者だ!!
凡夫じゃない聖者だと妄想した在家は布施をする⇒メシが喰える。

凡夫と【而】凡夫の違いはバカにはわからない。而凡夫じゃ喰えない!!
菩薩はメシにつながらない実践をなぜするのか?
不死の門を開く=悟りや救いの実現のため、です。

anpontaikunさん

>もしそういう事を言う人がいたとしたら、とんでもない大妄語です。
「もし」ではなくanpontaikunさん自身が「私は凡夫ではない、不還向を得た聖者だ」と言ってます、こんなバカげたウソ、可哀想な人の発言だと誰も本気にしていないから人畜無害とはいえ事実に反することを言ったら妄語じゃないんですか?

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hariharaさん

2017/5/401:14:52

部派仏教(声聞)は利己的、大乗仏教(菩薩)は利他的、ってことでしょうね。

自分の解脱のための持戒は、衆生救済を悲願とする菩薩にとっては利己的だから破戒になる、ということだと思います。

本来は仏教・ヒンドゥー教アドヴァイタでは、世界そのものが自分の心の作り出したものだと考えます。

衆生は自分の心の作り出した世界の一部です。

だから、自分が解脱すると自分の作り出した世界全体が解脱すると理論上言えるんですね。

ただ、こうした理解は、いわゆる世俗的な理解からはかけ離れています。

だから、世俗向けの大乗仏教的な考え方にも、少数派向けの部派仏教的な考え方にも、それぞれ意味はあると思います。

===

それに、部派仏教・大乗仏教ともに「人に優しく」は共通の戒律ですから、現実的な行動規範は大して変わらない気がします。

それほど肩ひじ張って議論することでもないと思いますよ。

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