重要文化財である『氷川丸』は、

重要文化財である『氷川丸』は、 在りし日において飛鷹ら改造空母、 武蔵と会う事はあったのでしょうか? 戦時中は病院船として南方で、 終戦時は舞鶴で向かえましたが、 同じ客船だった飛鷹や隼鷹の空母・ 同じ氷川神社を祀った武蔵との縁は…。

ベストアンサー

1

「氷川丸」は、第四艦隊隷下で開戦を迎えています(wikipedia「第四艦隊(日本海軍)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E8%89%A6%E9%9A%8A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D)#1941.E5.B9.B412.E6.9C.8810.E6.97.A5.E3.80.80.E5.A4.AA.E5.B9.B3.E6.B4.8B.E6.88.A6.E4.BA.89.E9.96.8B.E6.88.A6.E6.99.82.E3.81.AE.E7.B7.A8.E5.88.B6」)。 実装艦で、「氷川丸」と邂逅していると思われるのは、開戦時に第四艦隊に所属した下記の艦艇です。 ・第四艦隊旗艦:練習巡洋艦「鹿島」 ・第一八戦隊:軽巡洋艦「天龍」「龍田」 ・第六水雷戦隊旗艦:軽巡洋艦「夕張」 ・第三一駆逐隊:駆逐艦「睦月」「如月」「弥生」「望月」 ・第二四航空戦隊:水上機母艦「神威」 ーーーーーーーーー また、「wikipedia」等を検索すると、確実に邂逅しているのは、軽巡洋艦「長良」です。 『1943年12月5日にクェゼリン環礁に寄港中に第50.3任務部隊の空母艦載機の攻撃を受け、至近弾により搭載魚雷が誘爆、48名が死亡、艦長を含む112名が負傷した。 長良は同環礁に停泊していた工作艦山霜丸より応急修理を受け、トラックに退避した。病院船の氷川丸に負傷者や戦死者の遺骨を預け、西村友晴先任将校を艦長代理とした。この損傷から日本本国での修理が決まるが、先だってラバウル空襲で損傷し艦尾を切断した駆逐艦長波の曳航を命じられる。氷川丸に預けた戦死者遺骨を再び長良に持ち帰り、長波を曳航して日本本土に向かった。』(wikipedia「長良(軽巡洋艦)」) 「武蔵」に関しては、シブヤン海海戦後にその生存者のうち10名が「氷川丸」によって帰国しています。 『(1944年)12月6日、180-200名が空母隼鷹で日本へ向かったが、隼鷹は12月9日に米潜水艦シーデビルの雷撃で被雷し、武蔵の生存者を慌てさせた。さらに、佐世保から横須賀への移動中や、横須賀海兵団での隔離生活でも、監視の番兵がついていたという。この他にも傷病者10名が病院船氷川丸によって日本に帰国した。』 ーーーーーーーーー 横鎮所属でもあった「氷川丸」は頻繁に横須賀と外地を行き来しており、例えば「ドーリットル空襲」の際、下記の艦艇等とすれ違っています。 (1942年4月)『二五(天候略)三.出港 津軽、氷川丸/入港 摩耶、那智、帆風、巻雲、鳩』。 また、 『(1945年)8月2日(但し、横須賀にこの日の空襲の記録が見当たらないので別の日かもしれません)、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受け』(wikipedia「宗谷(船)」) ていて、「長門」「潮」とともに「横須賀空襲」を体験しているようです。 ーーーーーーーーーーーー 病院船「氷川丸」は、「T事件」発生前まではトラックにいたことが多かったようですし、その後は、ブルネイなど連合艦隊集結地に。修理期間が長かった「飛鷹」はともかく、「武蔵」「隼鷹」とは、どこかの泊地で邂逅していた可能性が高いです。 「氷川丸」を舞台に1943年に制作された「海軍病院船」(監修:海軍省)に山本五十六の姿も撮影されていますが、この時期は、「武蔵」が連合艦隊旗艦を勤めた時期(1943年1月22日~1944年3月31日)でもあり、この撮影時期に会っている可能性が高いです。 なお、「武蔵」も横鎮所属でしたが、 (1943年)『4月18日、聯合艦隊司令長官たる山本五十六の戦死後、26日に古賀峯一新司令長官を迎える。5月17日に泊地を発ち、遺骨を携えたまま、22日に帰国した。6月24日には昭和天皇が行幸で乗艦した』(wikipedia「武蔵(戦艦)」) この時だけ、横須賀に入港していて、横須賀で行動を共にした可能性は低いように思います。

1人がナイス!しています

ThanksImg質問者からのお礼コメント

『時には昔の話を』(加藤登紀子) 皆様、回答ありがとうございます。 時間がなく乗船が出来なかったので、 次来るときまでに彼女が見たであろう 風景を船首で思い起こそうかと…。 なぜか某アニメ映画作品のパロディで、 同じ生き残りの『宗谷』と会話が浮かびました。 宗谷:「(南極に)行かねぇ調査船はただの箱だ。」 氷川丸:「バカっ!!」

お礼日時:2017/5/30 10:36

その他の回答(2件)

1

両艦・船の航行記録を確認しないと何とも言えませんが、病院船「氷川丸」の主要な任務は南方泊地から日本本土への傷病将兵の輸送ですのでその際に「同じ泊地に居た」可能性はかなり高いと思われます。徴用された3年半の間にのべ24回。 質問者さんが挙げなかったフネでいうと、駆逐艦「響」とのちょっとした縁が有名です。ときに昭和20年7月、舞鶴軍港で「響」に重油を供給(戦艦や大型輸送船は移動タンカーとして小型艦に燃料供給して回るのも仕事のうちです)した際に、「響」の士官以上全員を「氷川丸」に招待した由。腐ってもかつての豪華客船、駆逐艦の上では望み得ない「熱いお風呂」「清潔なテーブルクロスとフルコースの洋食」に士官一同大喜びだったとの事。話はここからで、このとき招かれた中にちょうど学徒動員されていた一人の見習士官がいたんですね。この接待に感激した思い出を胸に彼は終戦後に復学、卒業後の進路を日本郵船に決めます。彼は1980年代に日本郵船の社長を務め、引退前の最後の仕事として日本郵船のクルーズ事業を立ち上げました。そのフラッグシップとして建造された「飛鳥」は日本のクルーズ船を代表する存在となり、現在は二代目「飛鳥」が運行を継続しています。 ※なお、「飛鷹・隼鷹」は戦争がなければ同じ日本郵船の貨客船「橿原丸級」として完成するはずのフネでしたが、こっちは元から「有事には空母に改装されることを前提にして建造する」という特殊な存在でした。最高速度25ノットという能力は当時の客船として必要なものではなく、日本郵船側も「こんな性能と規模の客船、作っても赤字確定だよ。作りたくないんだけど…」と渋っていたのを「赤字補填してやるから作れよ」とゴリ押しで建造された、という経緯があります。純然たる貨客船として建造された「氷川丸」とはちょっと性格が違う存在ですね。先日実装された「春日丸」はこの両者の中間的な立ち位置で、「高速輸送船に転用できる優秀船を作れば補助金出すよ」という制度の元で日本郵船が発注した船です。

1人がナイス!しています

0

空母に改装された客船は、元々戦争になったら空母に改装すると言う形で設計されていましたが(ドイツ貨客船「シャルンホルスト」改造の神鷹は例外)、氷川丸は最初から客船として設計されていたので空母に改装されませんでした。 病院船「氷川丸」が南方で「武蔵」や「飛鷹」に会った事はあるか、、、あったと思います。聨合艦隊旗艦が「大和」から「武蔵」に移り、「武蔵」がトラック泊地にいた時、山本五十六司令長官が病院船を訪れて傷病兵を慰問しています。飛鷹については具体的には知りせん。 (下の写真) 病院船「氷川丸」酷使されて大分汚れていますね。

画像