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安土城跡に、数年前に行ってきました。 大手道は、まっすぐで、傾斜もそれほど...

for********さん

2017/8/505:29:06

安土城跡に、数年前に行ってきました。

大手道は、まっすぐで、傾斜もそれほどでなく、要所要所に穿たれるべき、竪堀や、堀切といった防御の仕掛けがまるで見られません。

小牧山城跡、岐

阜城跡などにも、こういった山城で当然あるべきものがありません。

不思議に思い、以前投稿した質問についたお詳しい方の回答などから導き出した私見ではありますが、信長は、籠城して戦うという発想を持っていないと考えていいんでしょうか?

思い起こせば、若き日の桶狭間も、重臣たちは、籠城を主張したものの、野戦に出て、打ち破っています。

信長の築城は、戦うための城というよりも、魅せるための城、と言えるのではないでしょうか?

あるいは、信長の城で、堀を巡らした難攻不落の要塞というべき城がありますか?

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yuk********さん

2017/8/513:01:11

安土城は何度も訪れています。堅堀や堀切の防御は戦うための山城では必要ですが、安土城は籠城して戦うための城ではないからこれらは不要です。

天主(天守ではない)は見せるためにもありますが、天主を含めて天皇を向かい入れるための城造りだとの説があります。

その理由の一つには幅広く曲がりが少ない大手道です。この幅の長さは天皇が駕籠の乗ったまま天主閣まで入れる幅があったことが分かります。

私はこの説を確かめるために、安土城大手道の石段の幅を巻き尺を持って実測してきましたが、平均して約4.5mありました。天皇が乗る駕籠に近い大名駕籠の長さも他の城の展示物から長さを実測しましたが約4mほどありました。これで、駕籠を横にしながら担ぎ手が大手道の石段を一歩ずつ登って天主閣まで行くことが可能です。つまり天皇の行幸道としての大手道を作ったのです。

更には安土城を築いた場所として琵琶湖の東沿岸築いていますが、この場所に決定したのは、上杉謙信が上洛する可能性があると知り、京都まで向かう道としては琵琶湖の東岸沿いを通ると推定したためです。謙信が上洛しようと近づけば、籠城ではなく、直ちに城から出て迎え撃つ用意のためにも幅広い大手道は使いやすいとも考えられます。

これらの内容からしても他の城とはまったく築く時点での発想が異なることから、国の特別史跡に指定されていることも納得できます。


〉あるいは、信長の城で、堀を巡らした難攻不落の要塞というべき城がありますか?

難攻不落までとは言えませんが、滞在した本能寺は、寺の周囲に堀を巡らせて、備えを固めています。ただこの場所は滞在を目的としていた町中の寺で、戦うことを前提としていたわけではなく、本能寺の変の時にも信長を守っていた小姓衆は多くても80人位だとも言われています。これに対して謀反を起こした明智光秀の軍勢は1万人以上とまるで数が違い過ぎるので結果はご存知の通りです。

信長は桶狭間の戦いを含めて、それ以前から籠城して戦うつもりはなく、自ら籠城して戦った合戦はありません。本能寺は不意を突かれたので結果的には籠城とは同じですが、これは信長の本意ではありせん。そのために本能寺で自害しています。

質問した人からのコメント

2017/8/10 04:57:55

ありがとうございました!

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ans********さん

2017/8/513:56:42

山城から平城へは基本です。防御に適した山城から城下町とセットにした基地としての平城へ城の役割が変化しています。
城下町作りに力を入れて産業政策を発展させていたのでしょう。使わない山城は移動に不便で平城の方が実用的だったのでしょう。

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yam********さん

2017/8/509:40:54

「近江を制する者は天下をせいする」

愛知・岐阜を本拠地としていた織田信長が東海道・北國街道・朝鮮人街道・中仙道・・・・・さらには琵琶湖を利用した湖上交通など持っている近江を制圧(現在の滋賀)することによって天下を統一しようと考えていた

お城=戦うためも砦という考え方が常識になっていた時代に信長は安土城は政治を行うための城
今風に言えば国会議事堂てきな考え方

そんな信長を倒して近江は我が物へと多くの武将たちが近江地先で激しい戦闘が続いていた
賤ケ岳の戦い・小谷城の戦い・・・・・後には関ヶ原の戦いへと

滋賀の戦国の歴史を知ると日本の歴史がわかってきます
なぜ東京が日本の首都になったのか?そのカギも滋賀の歴史にかかわっています

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tun********さん

2017/8/505:50:12

>信長は、籠城して戦うという発想を持っていないと考えていいんでしょうか

基本的にそれでよいと考えます。そもそも六角氏の観音寺山城などと比べると、防御には適さない場所に築城しています。
安土城では初めて瓦葺きの天主(天守閣)を築きました、この天主からは琵琶湖とその沿岸部を一望できます。ということは各地から天主を仰ぎ見ることができるということであり、信長の威信を高めることに一つの目的があったと思われます。
またこの場所は城下に港が設置できることが重要です。琵琶湖水運と陸運の接点に一大経済拠点としての安土城下町を建設しようとしたことに、もう一つの目的があったと思います。

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