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三国志 馬超反乱の夏侯淵について。 212年1月。馬超&楊昂の兵1万が冀城(天...

vit********さん

2017/8/2109:23:11

三国志 馬超反乱の夏侯淵について。


212年1月。馬超&楊昂の兵1万が冀城(天水)を攻める。

5月。曹操、馬騰らを処刑。

◯月。冀城、夏侯淵への救援要請に失敗。

(閻温)

8月。冀城降伏。韋康斬首。馬超占領。

◯月。夏侯淵、冀城救出に向かうも反撃され撤退。

※事案発生から救援まで8ヶ月。

一方、214年祁山籠城の際は張郃を先鋒に一ヶ月ほどで馬超を蹴散らし救援に成功しています。しかもいちいち曹操の判断を仰いでいては遅いと夏侯淵の即断で出撃。

長安から冀城と長安から祁山の距離はほぼ同じ約200キロほど。渭水にそって来ればいいだけで、街亭のように山脈を越える必要もありません。むしろ祁山のほうが難路。200キロは岡山~京都間。本能寺の際、豊臣秀吉なら10日で進軍した距離です。

宋建すら一ヶ月で滅亡させた夏侯淵機動部隊。なぜほぼ同じ距離にある祁山の時は助けたのに冀城の時は240日も粘っているのに救出に行ってあげないのでしょうか?むしろ馬超をさっさと攻め滅ぼして張魯討伐、劉備入蜀阻止など、やることは山積みのはず。しかも長安には張郃、徐晃、朱霊、路招、張既などベテランスタッフがいるはずなのに…。

援軍が来ないために三国志の中でも一二を争う凄惨で胸糞な籠城戦と復讐戦が展開されるわけですが、戦略的にも道義的にも涼州州治を馬超に明け渡す意図がわかりません。

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kou********さん

2017/8/2119:20:43

213年だと、この一連の行動の遅れはズバリ、魏公就任に忙しかったから!となっちゃいそうですけど、いくらなんでも、西方が騒がしい時期にそんな悠長なことするかな・・・という感じ・・・。

後漢書献帝紀でも三国志説を採用ですが、さて。

西方の備えが手薄だったのは、蘇伯・田銀の反乱があって、そちらに忙殺されたから、ということになってますね。
212年だとすると、梁興らの反乱なんかもあって、出遅れた面もあるのではないでしょうか。こちらは藍田ということで、長安に近いので急務だったでしょうし。

しかし、流れ的には213年説がしっくりきますね。
武帝紀でも213年の最後に馬超が漢陽で反乱した、とあり、合致しますし。
抗争が丸1年続いて、214年の祁山篭城で決着、と。


思うに、最初はやはり、中央とのやりとりに手間取ったのでしょう。くしくも、中央では魏公就任式の準備真っただ中。
5月の馬騰処刑は、となると曹操の魏公就任と同時になります。
閻温の一件があって情報が遅れたのか、魏公問題でそれどころではなかったのか、ともあれ、馬超の二度目の反乱で、いよいよ馬騰も人質の価値なしと判断された、といったところでしょうか。

5月から戦準備をしたのか、冀城から二百里の地点で夏侯淵が一敗しているということで、まあ、馬超もバカじゃない閻温を捕まえたくらいで、夏侯淵の動きを牽制していたのでしょう。
たぶん、急報(閻温以降?)から即断即決の夏侯淵は取るものもとりあえず発進したけど、二百里の地点で迎撃されて、引き上げざるをえなかった、ということではないでしょうか。それか、真実、中央との連絡に手間取ったか。
まあ、その戦いの際中に冀城が陥落したのか、まあ、夏侯淵が負けて万策尽きたのか・・・。

その後、夏侯淵は出直して、馬超を追い詰めていくわけです。祁山の一件は別とは考えず、一連の戦いのうちと思ったほうが良いかと思います。
祁山の時は、夏侯淵もいつでも出陣できる体制で、曹操のゴーサインを待っていたら、向こうから救援要請がやってきた、という感じかな・・・。
何しろ、馬超に冀城を占領されてるんですから、取り返しに行くのは間違いないんですから・・・。

  • 質問者

    vit********さん

    2017/8/2121:04:40

    ありがとうございます。

    そうですよね。魏公就任で見放したというなら楊阜たちの復讐心が曹操に向きそう(笑 >艸<)やはり情報が届かないというのが一番リアルなんでしょうかね…。

    基本的なことですいません(*´∀`*)
    そもそも、もし閻温が長安に到着して「援軍来て」って言ったら夏侯淵は出撃できるのでしょうか?それとも曹操の命令がなければ閻温が100人来ても出撃できない仕組みなのでしょうか?

    個人的にこの時代、突発的な防衛戦なら節がなくても「将、外にあっては君命も奉ぜざることあり」のやつがバンバン通用すると思ってたので、8ヶ月間の夏侯淵の沈黙が解せぬと思ってのこの質問なのですが。やっぱり鄴に伺いを立てるのがデフォの防衛マニュアルなのでしょうか?あれ?魏軍てこんな自衛隊っぽかったでしたっけ?w

    即断即決の夏侯淵には常に勝手に出撃して欲しい願望があるのですけどw

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2017/8/24 17:56:17

皆様ありがとうございました。

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kum********さん

2017/8/2220:29:27

動き出したら早いでしょうから、単純に何らかの理由で動けなかった、と見るのが妥当なのではないでしょうか。

他の方もおっしゃっていますが、結局はシステムの方が付いてきてなかった、と見るべきだと思います。曹仁とかにしても蘇伯等を討伐して初めて仮節されているぐらいで、特定の人物を除けばこの時期までは基本曹操自身が軍を統括し、その中で配下の武将に指示を授けて動かす、と言うスタイルです。

赤壁以降ぐらいから段々方面軍の重要度が上がってきている感じですね。

仮節とかは与えようと思えば与えられたと思うのですが、曹操はかなり用心深い人物ですし、特に魏公就任前ですと、曹操配下に節鉞を与えるのではなく、漢王朝の配下、同僚に与えることになるので、一つ間違えると結構怖い状況になりかねないのではないですかね。実質的にはほとんどが曹操配下である、としても。

この辺りは献帝を受け入れたことのデメリットの一つなのではないでしょうか。組織として機能させるために、この辺りでリスクを負うことになった。その枷を外すためにも魏公の就任は絶対必要だったのだと思います。

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ful********さん

2017/8/2109:54:39

長安周辺の関中軍閥掃討に未だ追われていたってのも有り得ますが、そもそもこの時の夏侯淵は仮節を持っていないどころか、領軍や護軍を代行している程度の地位で、いちいち曹操に指示を動かないと勝手な行動は本来できなかったと思います。

しかも涼州は中央との交通が度々遮断されているところで、例えば衛覬が長安まで来て益州行きを諦めたこともあります。

虎の子の別駕閻温すら馬超に発見されて殺されたように、使者が殺されまくり、夏侯淵がいる長安まで状況が殆ど伝わっていなかったのではないでしょうか?

不確かな情報を元に、遠くの曹操とお手紙交換してるうちに、韋康騙されて降伏し死亡。

この時に素早く動けなかった反省から、夏侯淵はその後の馬超、韓遂、宋建との連戦では即断即決で動きまくったとか。(そして劉備戦も同じノリで動いて戦死…)

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