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幕末の薩摩藩がイマイチよくわかりません。 薩摩藩は尊王攘夷派なのか公武合体派...

s00284942さん

2017/8/3007:01:26

幕末の薩摩藩がイマイチよくわかりません。
薩摩藩は尊王攘夷派なのか公武合体派なのかどっちなのですか?
天皇は攘夷派で長州藩と最初仲良くなるのはわかります。
ですが天皇は佐幕、長州は

倒幕派→仲悪くなる。長州藩京都から追い出す。
ネットなので見ると薩摩藩は公武合体派と尊王攘夷派のふたパターンあるのでよく分かりません。
あと薩摩が薩英戦争して負けて倒幕派になった意味がわかりません。
あと長州も負けたら幕府のゆうとおりだった…とはならないのですか?、?

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wakka_obgy07さん

2017/8/3012:35:45

薩摩は一貫して「幕政改革による国家改造を目指す」です。ペリー来航ころの藩主島津斉彬の方針を弟で国父として実質藩主となった久光が愚直に継承しました。なので、寺田屋事件で藩内の倒幕、尊皇攘夷派を粛清し、朝廷の一部を巻き込んで強硬な尊皇攘夷路線を突っ走る長州と対立します。もともと攘夷に関しては、薩摩は現実路線をとっており、たまたま生麦事件を起こしていますが、攘夷を強く推進する立場にはありませんでした。
薩摩が幕政改革を断念し、倒幕に舵を切ったのは、皮肉にも島津斉彬が将軍に担いで幕政改革をさせようとした一橋慶喜が15代将軍になり、薩摩を政権中枢から追って、一會桑政権を作り、自分のイニシアティブを執ろうとしたことがきっかけだった。薩摩はあくまで政治の中枢にあって、改革を進める立場であり、そのパートナーに初めは一橋慶喜、のちに長州藩を選んだということで、その点では一貫していたと言うことです。

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ベストアンサー以外の回答

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2017/8/3012:00:53

幕末を通じて、薩摩藩の考え方はほとんど同じです。

① 政治については、天皇の意思を取り入れつつ、幕府と雄藩の話し合いで進めるべき。(尊王=公武合体)
② 外交については、開港はやむを得ないが、外国に好きにさせないために西洋技術を取り入れて軍備を整えるべき。(攘夷)

この考え方はペリー来航のころ、幕府の老中筆頭だった阿部正弘と、当時の薩摩藩主の島津斉彬の作った路線です。
しかし、井伊直弼が大老になると、この意見は安政の大獄で弾圧されました。
薩摩は斉彬の死後、弟の久光が兄の遺志を叶えることを藩の方針にかかげ、斉彬の路線を引き継ぎます。
が、幕末の最後の年の1867年(慶応3年)の四侯会議の決裂によって、公武合体は不可能だと悟り、小松・西郷・大久保らが倒幕を決定します。

薩摩の考え方が一貫して変わらないのに、どうして意見が変わるように見えるかというと
・幕府:政治に雄藩の意見を取り入れろというのが気に入らない→反幕府だ
・長州過激派:幕府と話し合いなど生ぬるい→幕府寄りだ(尊王攘夷vs公武合体)
と、見る側によって分類が変わるからです。

学校では、長州が「尊王攘夷vs公武合体」ととらえた主張だけを教えるので逆にわかりにくくなっていますが、上に述べたとおり、薩摩は「尊王=公武合体」という考えです。


薩英戦争は倒幕と関係ありません。
長州が下関戦争後に倒幕となったのと、薩英戦争後に薩摩がイギリスと仲良くなったのを一緒くたに教えることが多いので、ごっちゃになりやすいだけです。

また、薩英戦争は攘夷の戦いでもありません。
生麦事件では日本人でも同じことをすれば斬られているので、外国人だから斬ったわけではないです。
しかし、攘夷派の孝明天皇が、よくぞ攘夷をやったと誤解して大喜びし、世間も熱狂してしまったので、薩摩はあれは攘夷ではなかったと言い出せなくなってしまいました。
しかし薩英戦争の結果、薩摩は攘夷が無理だとはっきり態度に出すようになります。

長州が下関戦争をきっかけに倒幕に変わるというのも乱暴な言い方で、実際は下関戦争後に高杉晋作が挙兵して過激派が藩の実権を握り、幕府が第二次長州征討を決定したのがきっかけです。
これにより長州と幕府の和解の道が閉ざされ、反幕府以外の選択肢がなくなりました。
あと、幕府の開国とはあくまでも幕府と外国が貿易することなので、下関戦争後、外国と長州との貿易に幕府は反対しています。

長くなりましたが、質問の答えをまとめると
Q1「薩摩藩は尊王攘夷派なのか公武合体派なのかどっちなのですか?」
A1「薩摩では尊王=公武合体なので、別のものとは考えていません」

Q2「薩摩が薩英戦争して負けて倒幕派になった意味がわかりません」
A2「そのとおりです。薩英戦争と倒幕は関係ありません」

Q3「長州も負けたら幕府のゆうとおりだった…とはならないのですか?」
A3「逆に、幕府ばかり貿易して長州にさせないのはズルいと言い出しました。幕府が第二次長州征討で攻めて来たので、幕府と戦うしかなくなりました」
となります。

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tlklzv9028さん

2017/8/3011:12:37

薩摩藩では前藩主が開明派であったのでその時に取立てられた重臣が明治維新を推進していました。
藩主は公武合体派で幕府に反抗する気はありませんでした。(幕府を支える諸藩連合の盟主になる事を考えていた。)
薩摩藩主が藩兵2000人を引き連れて京都に上洛すると言う情報が西国諸藩に流れると「薩摩藩主が武力で幕府に攘夷の実行を迫る為に上洛する。」と伝わり攘夷思想の者が多数脱藩してこれに加わろうとしたのです。(京都の騒乱の原因になっています。)
薩摩藩主は薩摩藩の過激思想の者の鎮圧を命じて寺田屋事件となっています。(勤王派の薩摩藩士同士が伏見の寺田屋で殺し合った事件です。)
この当時は手段が違うだけで殆どの思想は勤王攘夷の考え方でした。
外国勢力は全て日本から追い出すべきと言う過激思想から幕府の力を高めて外国から舐められない国にしようと言う現実派まで様々でした。
薩摩藩主の考え方は後者でした。
生麦事件で英国に謝罪しない薩摩藩の態度に業を煮やした英国は薩摩藩本国に艦隊を派遣して謝罪を求めた。(やり方はペリーと変わらない軍艦を城下の沖合いに派遣して脅して行う砲艦外交です。)
薩摩藩は城下の沖合いまで侵入して来た英国艦隊に砲撃して戦端を開いたが反撃を受けて城下町が焼けています。(英国艦隊も薩摩藩の砲台から砲撃を受けて艦隊司令官が戦死する等の損害を受けています。)
外国軍隊の威力を目の当たりにした薩摩藩(勤王攘夷派)は単独で外国勢力に武力で対抗する事は不可能な事を知った訳です。(外国勢力に対抗するには日本に強力な統一政府を作り国力を付けた上で対抗しないといけない事をやっと悟った訳です。)

izupeninさん

2017/8/3009:46:19

公武合体の協議の中で、孝明天皇の偏狭さ、徳川慶喜の頑固さに会い、実際には公武合体の困難さに直面して、倒幕による改革しかないと決意したのです。
公武共に頑迷であったのでは合体したらとんでもないことになります。薩英戦争との関係は時系列で見なおしてください。

wssa11111さん

2017/8/3009:02:07

坂本龍馬が大政奉還のため、犬猿の仲であった薩摩と長州をとりもったことになっています。
幕府は第二次長州征伐で苦戦します。薩摩はそれを見て討幕に向かいます。
徳川慶喜は途中から寝返った薩摩には怒っていたと本で読んだことがあります。

2017/8/3008:42:07

藩論が変わったと言うだけです

斉彬が生きていた時は公武合体でした
最初はその路線でしたが、薩摩は幕府に愛相が付き
倒幕に変更したのです

薩英戦争は倒幕のきっかけではありません
生麦事件も攘夷の実行ではなく
大名行列を横切ったからです
薩英戦争は、その産物というだけ
しかし久光は内心攘夷だったでしょう
とは言え攘夷を指示した形跡はありません

>長州も負けたら幕府のゆうとおりだった

どこに負けたらなんですか?
四カ国艦隊でしょうか?
負けたので攘夷を捨てました
しかし、倒幕路線は変わりませんので
腹の中は隠して攘夷で幕府を追い詰めたのです

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