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明智光秀が雑賀衆に書いた書状が発見されましたが、内容が本能寺の変で織田信長を...

got********さん

2017/9/1713:26:28

明智光秀が雑賀衆に書いた書状が発見されましたが、内容が本能寺の変で織田信長を倒したので、鞆にいる足利義昭を再び将軍に向かえ入れたいから、河内まで出兵して下さい。

こう書かれていましたし、明智光秀が何故に信長を討ったのか此れで問題は解決したと思いませんか。

明智光秀の直筆で花押もありますし、間違いないでしょう。

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oia********さん

2017/9/1714:56:51

今回は書状の本物が発見されたという事でニュースになりましたが、この書状は写しの存在が以前から知られており、その内容は既に研究者に広く知れ渡っていました。
ですので、内容については特に目新しいものはなく、この発見によって本能寺の変に関する議論に変化があるとは言えません。

ではなぜ、以前から義昭を上洛させると書かれた書状がある事が分かっていたにも関わらず、光秀の動機について多くの議論がなされていたかというと、義昭を上洛させるのが乱の目的だったと考えるには不自然な点があるからです。

それは、毛利家が本能寺の変の情報を全く知らなかったという事です。
当時足利義昭は毛利家の下に身を寄せていました。その義昭を上洛させようと考えるならば毛利家と連絡をとる事は必要不可欠だったといえます。いくら信長を討ち取っても、義昭を身一つで京に来させるわけにはいきませんので、必然的に毛利軍に動いてもらう他ないからです。
ところが、毛利家は本能寺の変が起こった事を全く知らず、あっさり秀吉との和睦を受け入れ、その後も秀吉の後を追わず、状況を見守るという選択をしています。
これは、毛利家が本能寺の変の事を知らなかったばかりか、信長の身に何かが起こるという事を全く想定していなかった事を示しています。
本当に義昭を京に迎え入れようと考えていたならば、このように毛利家に何の情報も入っていないという事は考えられません。

また、光秀は本能寺の変の後他にも書状を送っていますが、それらには義昭の事は全く書かれていません。
例えば、細川藤孝に宛てた書状では、光秀は信長を殺したのは藤孝の子の忠興の為だったなどと書き、状況が落ち着いたら自分の嫡男と忠興にすべてを任せて隠居するとも述べています。
忠興の為に信長を殺すなどという話は支離滅裂で、とても事実とは思えません。
このような例を見る限り、当時の光秀は一人でも味方を増やそうと、なりふり構わずに相手の歓心を買う内容の書状を送っていた事が見て取れます。

今回本物が発見された書状もそのような状況で書かれたものであり、以前から義昭と連携していた雑賀衆の歓心を買うために書かれたとみるべきです。
少なくとも光秀が本能寺の変の前から義昭の為と考えて乱を起こした根拠にはなりません。

質問した人からのコメント

2017/9/23 22:30:47

写しの存在が知れ渡っていたのは初めて知りました。

まあ、光秀も混乱していたのかもしれませんね。

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gon********さん

2017/9/1906:04:26

この書状は、平成26年7月思文閣古書目録238号にて、定価480万円にて販売されていたものを、美濃加茂の○氏が購入し美濃加茂ミュージアムに寄贈していたものです。思文閣目録にも、藤田節がかいてあり本来はこの時点が現物の発見かと思います。 蓬左文庫に問いあわせしましたが、直筆とは確認はしていないとのこと、藤田氏のみが直筆と発表したとのこと、そして黒幕とかはこの書状からは判断できないと! このあたりは藤田氏の売名行為とおもわれます。新たな発見は公的博物館側は承知していないようです。

one********さん

2017/9/1717:31:12

>本能寺の変で織田信長を倒したので、鞆にいる足利義昭を再び将軍に向かえ入れたいから、河内まで出兵して下さい。

なんて、一言も書かれていません。

問題の書状は森文書(東京大学史料編纂所(へんさんじょ)架蔵・影写本)として存在し議論の対象となっていました。

その『写し』の原本(実物)が発見されたということです。

『「雑賀五郷 惟任日向守
土橋平尉殿 光秀
御返報 」

尚以、急度御入洛義御馳走肝要候、委細為上意、
可被仰出候条、

如仰未申通候処ニ、上意馳走被申付面、示給快然候、
然而御入洛事、即御請申上候、被得其意、御馳走肝要
候事

一、其国儀、可有御入魂旨、珍重候、弥被得其意、可
申談候事

一、高野・根来・其元之衆被相談、至泉・河表御出勢
尤候、知行等儀、年寄以国申談、後々迄互入魂難
遁様、可相談事

一、江州・濃州悉平均申付、任覚悟候、御気遣有間敷
候、尚使者可申候、恐々謹言、

六月十二日 光秀(花押)

雑賀五郷
土橋平尉殿
御返報』


上記『』内が問題の書状です。

この書状の本文部分を現代語に訳すと、

『なお、必ずご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意からご命じになられるということです。委細につきましては申し上げられません。

仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながらご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。

一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。

一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。

一、近江・美濃までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。』

となります。

日付が「六月十二日」としか書いてないので、その年代解釈が議論の対象となっています。

年代解釈は大きく分けて三つあります。

一、1577(天正5)年 奥野高広(織田信長文書の研究)

二、1578年か79年 立花京子(朝廷黒幕説)

三、1582年 藤田達生(足利義昭黒幕説)

奥野氏は、信長の和歌山雑賀攻め(1577年)の関連文書と見ています。

その根拠は「江州・濃州悉平均申付」にあり、それを一向一揆の発生と考えています。

立花氏は光秀の花押の形から78年から79年だとしています。

藤田氏は、雑賀攻撃は2~3月に行われたもので6月に反信長派である土橋に光秀が援軍を求めるとは考えられない、としています。

そして、光秀が「惟任日向守」と名乗るのは1573年以降です。

もし、ここにある御入洛されるのが信長とするのであれば、それは1568年ですからあてはまりません。

この書状の文脈から冷静に考えて、天正10年(1582年)に書かれたものだと私は考えています。

藤田達生氏は「新発見&新事実」と大騒ぎをして自分が主張される「本能寺の変」の黒幕が足利義昭であるということを言いたいだけです。

肝心の六月十二日は明智光秀が「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れる一日前になります。

本能寺で信長を討ったにも関わらず、思うように味方が集まらず、切羽詰まった光秀が苦し紛れに同調を求めるように書いた書状だと私は思います。

おそらく、「上意」、「御入洛」も土橋平尉を味方につけるための方便すなわち嘘ではないでしょうか?

当時(6月9日)、光秀は丹後国の細川氏に下記の書状を送っています。

『一 細川藤孝と息子の忠興が、髷(まげ)を切って信長の喪(も)にふくしている ことを聞いて、非常に腹をたてたけれど、2人の立場を考えたら仕方ないかと怒りを静めた。でも、今からは、自分の味方をしてもらいたい。

二 自分の味方をしてくれたら、新たに摂津国(大阪府)をやろうと考えている。摂津国より若狭国(福井県の一部)をもらいたい、というのであれば、そのようにしてもよい。

三 我々が信長を倒したのは、細川忠興などをりっぱな大名に取り立てたいと思ったからだ。
50日から100日の内には、周辺の国々は平定してしまうつもりなので、その後は、それらの国々は、自分の息子や忠興にやるつもりでいる。』

上記のように味方を募る為に、光秀はいろんな書状を書いています。

今回の書状もその中のひとつでしょう。

hon********さん

2017/9/1713:33:48

本能寺の変を起こした後にこの書状を書いているので、必ずしも室町幕府の復興が狙いだったかどうかは分からないのでは?
変を起こした後に、味方につく大名を増やすために義昭を傀儡として祭り上げる……と考察しますが、どうでしょうか

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