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武将や戦を教えて下さい。

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ID非公開さん

2017/10/110:18:28

武将や戦を教えて下さい。

圧倒的な戦力差、武力差があったにもかかわらず、
知力、作戦などで、勝った武将や戦を教えて下さい。
日本史、世界史問いません。
できれば、日本で知名度が高く、人気のある武将、戦が好ましいです。
よろしくお願いします。

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hir********さん

2017/10/310:41:27

●九頭竜川の戦い(1506年)

越前国(福井県)の九頭竜川にての
朝倉宗滴を総大将とする朝倉軍と北陸一向宗軍の合戦

諸説ありますが
朝倉軍8000~16000対北陸一向宗軍30万が激突

戦いは、流れが比較的に穏やかな下流地域を一向宗軍が渡河して朝倉軍に攻撃を仕掛ける事で始まりました。
一方で朝倉宗滴らの布陣地域は流れが急流の為に朝倉軍は渡河を躊躇していましたが朝倉宗滴らは渡河を決断しました。
一向宗軍がこれに不意を突かれた形で後退したところで宗滴は精鋭部隊を投入した為にこの方面の一向宗軍はパニックになり敗走を始めました。

これが先に下流地域などで渡河しいていた他の一向宗軍にも伝わり、逃げる為に先を争って川に飛びこんだ為に溺死するものが続出し、九頭竜川の河畔には死傷者であふれかえったそうです。

朝倉軍の奇跡的勝利でした。
一向宗軍は30万の内で勢力圏の加賀国(石川県)まで逃げられたのは10万ほどという大敗でした。

これにより一向宗軍は名将の朝倉宗滴の生存中は越前国に侵攻できない状態となったのです。


●河越城の戦い(1546年)

「河越夜戦」とも言われます。

武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近にての
北条氏康軍11000と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍80000の合戦。

関東では、山内上杉家・扇谷上杉家 ・足利公方家が長年に渡り離合集散をしていました。そしてそれに付け入る形で関東に進出して来たのが北条早雲を初代とする北条家でした。

そして2代目当主の氏綱が死去した後、氏康が若くして3代目当主となったのを好機として、駿河国の今川義元と軍師の大原雪斎の謀略工作もあり、山内上杉家・扇谷上杉家 ・足利公方家が連合軍を結成して、北条綱成3000が守る河越城を80000の大軍で包囲したのです。

この時期、北条家は駿河国東部を巡って今川家と争っていました。
しかし河越城の危機により、北条家は武田信玄の仲介で今川氏と屈辱的な和議をしました。
そして北条氏康は8000を率いて河越城の救援へと向かったのです。

河越城は食料を備蓄していた事もあり約半年程も攻撃に耐え忍んでいました。
その為に連合軍は戦意が落ちて軍規も乱れ始めていました。
そこで北条氏康は
「北条綱成と城兵を助命してくれれば開城して和議を結び、足利公方家に仕える」

などと弱気な交渉姿勢を見せて連合軍側の油断を誘いました。

そして4月20日夜。
北条氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせると連合軍に夜襲をかけました。この夜襲に対して油断しきっていた連合軍は大混乱に陥りました。

その結果、
なんと扇谷上杉家軍は当主の上杉朝定が討死。
朝定には子供がいなかった為に扇谷上杉家は断絶して滅亡。

更に
山内上杉家軍も数名の重臣が戦死して敗走。
やがて武田信玄と北条氏康に圧迫された上杉憲政は越後国に逃亡。
長尾景虎に山内上杉家の名跡を譲る事になりました。

また
足利公方家軍も城から打って出た北条綱成軍により敗走。
直後に古河御所を包囲され降伏。
足利晴氏は隠居させられ、やがて足利公方家は北条家に乗っ取られ消滅して行く事になります。

関東の情勢を1夜にして激変させた戦いでした。



●木崎原の戦い(1572)

日向国(宮崎県)の木崎原(現えびの市)にて
島津義弘軍300と伊東祐安軍3000との間で行われた合戦。

この時期、島津軍主力は大隅国(鹿児島県東部)の肝付氏と交戦中でした。
これを好機ととらえた伊東氏が日向国南西部の島津方の加久藤城を攻撃。
島津義弘が救援に駆けつけましたが周辺の島津軍は合わせて300の劣勢でした。

しかし義弘は事前に伊東軍に偽情報を流し、加久藤城の防備が固い場所へと誘導した為に伊東軍の攻撃は失敗し、付近の池島川まで一時退却。
伊東軍は援軍の肥後国(熊本県)の相良氏の軍を待つ事にしました。

しかし島津義弘は付近の農民たちに多数の島津軍の旗を持たせて待ち構えさせ、それを見た相良軍は戦わずにすでに本国へ撤退してしまっていたのでした。

伊東軍は、10倍の戦力差があり、その日が蒸し暑かった事もあり川で水浴びを始めるなど油断しきっていて、そこへ島津義弘軍が奇襲を掛けました。
そして義弘は一騎打ちにより伊東軍の大将の1人の伊東祐信を討ち取りました。
この時、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、伊東祐信の槍が義弘に刺さりそうになった寸前に自ら前脚を折り曲げて槍を交わし、バランスを崩した祐信が義弘に打ち取られたという逸話もあります。
しかしこの後、小勢の為に義弘は一時退却しました。

これを受けて伊東軍も体制を立て直すために退却を始めました。
その途中で伊東軍は付近の白鳥神社の僧兵軍と遭遇したり、義弘の攻撃を受けるなどして進路を度々変更させられました。
しかし小勢の義弘軍も戦死者が続出して退却し、それを追う形で伊東軍も木崎原に移動しました。

この時、義弘は残りのわずかな手勢で伊東軍に反撃に出ました。
そしてその時、義弘があらかじめ伏兵として配置していた鎌田隊、五代隊が伊東軍に襲いかかりました。
これは結果的に島津軍の必殺戦法の『釣り野伏せ』の形となりました。
伊東軍は総退却を始めましたがその退路先で次々と島津軍の伏兵に襲われました。

その結果、伊東軍は総大将の伊東祐安を始め、幹部クラスの武士128人、それを含めた士分250余人、雑兵560人余りを失うという大敗北となりました。

伊東氏は日向国に「伊東四十八城」と言われる盤石な支配体制を敷いていました。
本城を中心としてその外側に48の外城及び砦が存在し、その重要地点の城には伊東氏の一族や有力家臣が配置され周辺の城に睨みを利かせていました。

ところがこの「木崎原の戦い」の大敗により多数の有力家臣を失ってしまった為に、伊東氏は支配体制が崩壊し,やがて島津氏に圧迫されて日向国から大友宗麟の元へ逃亡する事になるのです。

ただしこの戦いにおける島津軍の生存者も50人程で実に戦死率は85%にもなり、島津義弘にとってもギリギリの勝利でした。


●沖田畷の戦い(1584)

肥前国森岳付近(長崎県島原市)にて
龍造寺隆信軍と有馬晴信・島津家久の連合軍との間で行われた合戦。

諸記録があるが、
龍造寺隆信軍60000~25000 対 連合軍8000~9000

天正6年(1578年)
大友宗麟は、日向国(宮崎県)の「耳川の戦い」において
島津義久・義弘・家久の島津軍に大敗し有力家臣を多数失い衰退に向かいました。
この大友氏の衰退もあり、肥前国(佐賀・長崎県)の龍造寺隆信が勢力を拡大。
しかし隆信の強圧的な統治や家臣の殺害はやがて離反を招きました。

天正12年(1584年)3月
肥前国島原半島の有馬晴信が龍造寺隆信から離反しました。
これに対して龍造寺隆信は自ら60000とも言われる軍を率いて討伐に向かいました。

その為に有馬晴信は島津氏へ救援を依頼し、島津氏は承諾しました。
しかし島原半島へ渡る船舶の数が足りない事もあり、派遣できたのは島津家久と3000程の兵だけでした。

ところが圧倒的に劣勢のにもかかわらず島津家久は迎撃策を主張。
龍造寺軍の進路である沖田畷という湿地帯に連合軍は布陣しました。
「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味です。
連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸や柵を築いて守りを固めました。

そして龍造寺軍が攻撃を開始すると島津軍の先鋒隊が軽戦後に敗北を装い退却。
龍造寺軍はこれを追撃し連合軍陣地へ進撃。

ところが大軍が湿地帯の中に延びた小道に殺到した為に動きが取れず、大半の兵は胸まで埋まる深田の泥沼の中で身動きが取れなくなりました。
そこへ連合軍が鉄砲・弓で攻撃した為に龍造寺軍は被害が続出しました。
そしてこれを助けようとした龍造寺軍の第2陣も同じく深田の泥沼にはまって大混乱となりました。

龍造寺隆信は使者を派遣して戦場の様子を把握しようとしました。
ところが戦場に着いたその使者は、

「何をもたもたしておる!命を惜しまず突撃せよ!」

などとと勝手に触れて回った為にそれを聞いた将兵らは

「俺たちに死ねというのか!」

と抗議しながらも無謀な攻撃を仕掛けたところ、
それまで潜んでいた島津方の伏兵からも弓・鉄砲で射撃され、深田の中で次々と射殺されて行きました。

そしてこれを勝機と見た島津家久は全軍総攻撃を命じ、これを受けて抜刀した島津軍の怒涛の突撃が開始されました。
島津軍の必殺戦法の『釣り野伏せ』がはまった瞬間でした。

これに対してパニック状態の龍造寺軍にはなすすべもなく、やがて島津軍に龍造寺隆信がいる本陣に突入されてしまいました。
隆信の側近の近習たちも奮闘しますが勇猛でなる島津兵に次々と討ち取られて行きました。
龍造寺四天王と言われた1人の百武賢兼も40名の部下と共に力尽きて討死。

龍造寺隆信は覚悟を決めたのか床机に腰掛けたままでした。

そこへ

「龍造寺隆信殿とお見受けいたす。川上左京亮忠堅、見参。御首級頂戴!」

隆信は島津軍の川上忠堅に首を切り落とされてしまいました。

時に龍造寺隆信五十六歳。
『肥前の熊』と恐れられ猛威を振るった戦国大名のあっけない最期でした。


島津軍の奇跡的大勝利でした。


龍造寺軍の被害は目を覆うばかりでした。
龍造寺四天王といわれる重臣たちも皆戦死しました。

木下昌直は鍋島直茂の戦場離脱を見届けてから島津軍に切り込んで戦死。

江里口信常は島津家久の姿を求めて斬りまくって島津兵の死体の山を築きますが、ついに取り囲まれて戦死。

成松信勝は龍造寺隆信の戦死を知ると部下16名と共に島津軍に切り込んで戦死。

円城寺信胤もこの戦いで戦死しています。


※龍造寺四天王は5名の名があり、成松信勝が筆頭としてその下に4人がいるとの説もあります。

以後、当主の隆信と重臣を多数失った龍造寺は衰退し、嫡子の政家が病弱な事もあり、重臣の鍋島直茂が国政を代行するようになります。

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jda********さん

2017/10/110:45:17

○井陘の戦い(韓信VS陳余)
古代中国・楚漢争覇時代に起きた戦い。漢王・劉邦の重臣である韓信率いる漢軍3万は趙に侵攻。これに対して趙の実力者であった陳余は20万と言われる大軍を率いて迎撃した。
数では圧倒的に劣る韓信軍だが、河を背にして布陣するという異例の戦法で趙軍と激突する。韓信の目的は、退路を断ってしまえば、敵と戦って勝利する以外に生き残る道はないので兵士達は死に物狂いで眼前の敵と戦う。よって高い士気を獲得できるので勝利しやすくなる、というものであった。この韓信の戦法はのちに「背水の陣」と呼ばれ、故事成語となった。
ただ韓信の策は、それだけではなかった。別働隊を組織して密かに敵軍の本拠地に急行させ、これを攻略させたのである。火事場の馬鹿力を発揮して奮戦する韓信軍に苦戦している間に本拠地を攻め落とされた趙軍は大混乱に陥って崩壊。
ここに圧倒的兵力を誇った趙軍は壊滅し、韓信は誰も予想しなかった大勝利を手にしたのである。


○倶利伽羅峠の戦い(木曾義仲VS平維盛)
治承・寿永の乱(世にいう源平の戦い)の際に起きた合戦。
反平氏を掲げて挙兵した木曾義仲(源義仲)は、信濃や越後を制圧して北陸最大の勢力に成長していた。これを討伐すべく平宗盛は甥っ子の平維盛を総大将とする10万の大軍を送り込んだ。
越中に進撃し、さらに加賀や能登をうかがう勢いだった木曾義仲も、これを迎え撃つべく大軍を動員。しかし木曾軍は3万余に過ぎなかった。

平家軍は二手に分かれ、主力の7万余は倶利伽羅峠に布陣した。木曾軍は2万から3万ほどの兵力で迎撃。昼間は特に行動を起こさず、平家軍の油断を誘うと、夜になって行動を開始する。重臣の樋口兼光率いる別働隊を平家軍の背後に回り込ませる一方、平家軍が寝静まった隙を突いて義仲軍主力が夜襲を敢行した。大混乱を起こした平家軍は我先に逃げようとするが、背後は既に樋口兼光率いる木曾軍に封鎖されていて逃げられない。そこで敵がいない場所に逃げようとするが、そこは断崖絶壁の崖であった。
追い詰められた平家軍は次々と崖から転落して壊滅。
兵力的には圧倒的に劣勢だった木曾義仲軍は、こうして大勝利を手にした。逆にこの戦いで主力軍を失った平家は、もはや近畿地方や京都を防衛する戦力も残っておらず、勢いづいた木曾軍が上洛を開始してもどうする事も出来なかった。こうして平宗盛以下の平家は都落ちに追い込まれたのである。

tak********さん

編集あり2017/10/110:51:01

楠木正成
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、赤坂城の戦い・千早城の戦いのゲリラ戦法が名高い。建武の新政の立役者として足利尊氏、新田義貞、赤松円心らと共に天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。

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