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後北条家の最後の当主、北条氏直にしたら叔母夫婦の早川殿と今川氏真が疫病神です...

min********さん

2017/10/115:25:32

後北条家の最後の当主、北条氏直にしたら叔母夫婦の早川殿と今川氏真が疫病神ですか?
今川家が滅亡して嫁実家である後北条家を頼った氏真夫婦。
当時の当主である氏康(氏直の祖父)は「今川

を滅ぼした武田とは手切れじゃ。武田の娘である氏直の母親は甲斐に送り返せ。」と6歳で母親と生き別れになりました。
母親は息子と会えないショックで体調崩して離縁の翌年に死去。
氏直の代で後北条家は滅亡して、捨扶持を与えられるも29歳の若さで死去。
一方、氏直から母親を奪った氏真は徳川家の庇護を受けて77歳の長寿を保つ。

補足この離縁は氏直だけじゃなくて夫の氏政(氏康の息子で早川殿の兄)も相当恨んでいましたよ。
その証拠に氏康が亡くなり代替わりすると「お前らのせいで俺の家庭は崩壊した」と相模から追放しています。
氏政が「武田の舅殿(信玄)が悪い」と考えているなら妹夫婦の追放はしないでしょ?
被害者の氏直が短命で加害者の氏真が大長寿ってのもね。
医学未発達である戦国時代の70代と言えば今だと80代位の感覚ですよ。

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mil********さん

2017/10/523:48:22

疫病神ということはありません。北条氏直から母を奪ったのは武田信玄が原因ですし、早世してしまったのは病のためですから。

戦国時代の大名同士の結婚はほぼ政略結婚ですから、嫁ぎ先と実家が敵対関係になることもよくありました。だからといって離婚するとは限りません。浅井長政に嫁いだ織田信長の妹お市の方、武田勝頼の継室である北条夫人など、最後まで婚姻を継続していました。これは夫婦の愛情もあるでしょうが、それよりも妻は実家を代表する外交官、最後の交渉窓口でもあったからです。
それを離別して城から出す、ということは現在でいえば大使召還、国交断絶を意味していました。ですから息子の妻を離別させた北条氏康の武田信玄への怒り、不審、恨みは大変なものだったことが分かります。

そもそも武田信玄が三国同盟を破り、駿河侵攻を行ったのです。今川義元の桶狭間での敗死、女大名とまでいわれた祖母寿桂尼の死去により今川家は弱体化しましたし、そこに攻め込むのは戦国時代の倫理であったでしょう。しかしながら今川・武田・北条がそれぞれ勢力を拡大しえたのは背後を守る三国同盟あってこそでした。
あるいは、徳川家康のように武田信玄と密約を結び、信玄が遠江と駿河西部、北条家が駿河東部を分割領有する、というやり方もあったかもしれません。
そうしなかったのは何故でしょうか。
北条氏康という人物は、肉親や一族への情愛が深く、大切にしていました。北条一族は5代に渡って一度の内乱もなく、一族の結束の固さは小田原城開城まで健在でした。今川氏真と北条氏政は父方を辿れば再々従兄弟ですが、母方からすれば実の従兄弟でした(氏政の母と氏真の父が姉弟)。氏康にとって親類で、妻の甥で我が子の従兄弟、そして娘婿の氏真は十分に庇護の対象であったのです。
ただし氏康はきちんと現実主義者でもあり、小田原に引きとった今川氏真に嫡孫の氏直を猶子にさせて、駿河国の支配権を譲渡させています。戦国大名としての今川家の滅亡は、むしろこの時だった、といえるのです。また、親族を大事にするとアピールすることで、北条家は頼りになる、信頼できるという評判を勝ち得ることも出来るからです。

戦国の世を生きのび、江戸幕府の高家旗本となった今川氏真・早川殿夫妻は、後に北条家に大きな贈り物をしました。同じ高家となった三河の旧守護で足利一族の吉良家とは、境遇も身分も似ていたこともあって、両家の娘を互いの嫡男に嫁がせ、さらに氏真夫婦の孫娘が吉良家に嫁ぎました。こうして吉良家には今川、北条、武田の血筋が色濃く流れることとなり、赤穂浪士討ち入りで有名な吉良上野介義央が上杉家の娘を正室としたことで、その子供が男系の途絶えた上杉家四代目当主となったのです。
上杉謙信の急死後、北条氏康の末息子で謙信の養子であった上杉三郎景虎は、妻子ともども謙信の甥・景勝によって殺害され、上杉家も簒奪されました。それが今川氏真と早川殿夫婦のおかげで、北条家や武田家滅亡の要因となった景勝から「上杉家」を取り戻すことが出来たわけです。

  • mil********さん

    2017/10/622:40:41

    qzp01467さんへ

    徳川家康は16人の子供がいましたが、娘は5人だけでした。さらに成人して嫁ぎ、孫を儲けてくれたのは3人だけで、その一人が北条氏直夫人の督姫でした。氏直に死別後、督姫は池田輝政に嫁ぎますが、輝政は西国将軍と呼ばれるほど広大な領土を持つ大大名となります。これは家康の娘婿だったことも大きく影響しています。
    北条氏直も生きていれば、北条家始祖早雲公が元々備中国生まれだった縁もありますし、家康が尊崇したという武田信玄の孫でもあったことから、西国で30万石以上の大名となったのは確実でしょう。

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2017/10/600:03:38

氏直も早く死ななければ、今川氏真と同じように、河内狭山藩の当主として復活する芽はあったんですから。怨んでも仕方ないですよ。

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yukuntennsaiさん

2017/10/218:54:48

確かに今川氏真は北条家にとって厄病神だったかもしれないですね

氏真は世渡りが上手だったんでしょうね。北条氏康も今川家滅亡前までは武田家と友好(表向き)関係を結んでいたものの、今川滅亡後は武田家が駿河侵攻を断行したために手切れとなります。この出来事が後の上杉家と後北条家を結ぶ越相同盟のきっかけとなりました。

氏真を匿うことで駿河侵攻への大義名分を作り出せるし、北条氏康は今川氏真の出自を辿れば、室町幕府であった足利氏に行き付きます。それと武田家の駿河侵攻をしたのが後押したのでしょう。

確かに北条家の金を貰い豪遊(遊興に耽る)していたので好印象ではなかったでしょうね。しかし影響力のあった氏康が1571年で病死し、北条氏政が家督を継承したがために、武田信玄の駿河侵攻への対応、上杉家の上杉謙信への対応、関東諸豪族への対応、さらには、氏康期に活躍した旧家臣団への対応と、やらねばならぬことが山積みで余計に氏真が世を渡りやすい環境になってしまいました。

そして上杉謙信も病死し北条家は織田家に臣従したことにより、京都への連絡ルートも容易くなり頻繁に京にも赴きました。一番影響力のあった織田家の織田信長が横死し豊臣秀吉が頭角を現した時期には京都に在住することも多々あったことと推測されます。さらに居候していた北条家も豊臣家によって滅亡を辿って行きます。

関ヶ原の戦い以後は息子を徳川家に出仕させるなどして今川家の命脈を保つため奮闘しています。次男は品川姓を賜るなど、これも徳川家に仕えており、なんだかんだで今川家は続いています。

結論:良いも悪いも今川氏真は京とのパイプラインも強かったからこそ、情勢判断力に長け、さらにプライドを使うときと捨てるときの読みが上手かったからこそ、生き残れたということです。

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ado********さん

2017/10/115:38:12

今川氏真が北条氏直の母親を奪ったというのは、やや論理の飛躍ではないでしょうか。
今川氏が滅びたのは武田信玄(とその同盟者の徳川家康)が今川領を攻めたからで、武田方からの攻撃です。氏直の母親を甲斐に返す決断をしたのは北条氏康だと思われます。恨むのであれば、そのどちらかになるのが筋では。

また、北条氏の滅亡は、北条氏の戦略的敗北であり、今川氏真の画策だとは思いません。時勢を的確に読み、豊臣氏との外交を巧みに行なえばよかったと思います。史実通りでも名胡桃城を奪わなければ小田原征伐を行なう理由がありません。

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