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三国志の質問です。 劉表のとこに落ち延びた劉備は、最初は南陽郡の新野へ配置...

kou********さん

2017/10/720:42:38

三国志の質問です。

劉表のとこに落ち延びた劉備は、最初は南陽郡の新野へ配置されたはずですが、いつからか南郡の樊城まで後退していますよね。

これの理由と時期を推測して下さい。

劉表が劉備の勢力拡大を恐れて、目の届くところに置こうとしたんでしょうか?
劉備が下がった後は、文聘が北方守備を任されていたと見てよいですか?

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ste********さん

2017/10/817:47:09

そのあたりは時系列が一番良く分からないところです。

『三国志』蜀書・先主伝には、そのあたりの時間はあまり記録されていません。

【表自郊迎、以上賓禮待之、益其兵、使屯新野。】

これが、201年(建安6年)のことになります。

【使拒、夏侯惇于禁等、於博望。久之、先主設伏兵、一旦自燒屯、偽遁。惇等追之、爲伏兵所破。】

この博望で、伏兵を用いて夏候惇たちをしりぞけたのが、いつなのか
よく分かりません。
博望県は、南陽郡の県ですから、新野県の近くであることが想像できます。

【十二年、曹公北征烏丸。先主、說表襲許、表不能用。】

次の記録が、207年(建安12年)に飛びます。

【曹公、南征表、會表卒、子琮代立、遣使請降。先主屯樊、】

劉表が亡くなったのは、208年(建安13年)8月のことです。
この年には、劉備が樊に駐屯していたことが分かります。

次に、魏書・武帝紀からです。

【八月、公征劉表、軍西平。】

これは203年(建安8年)の8月だと分かっています。
西平とは、汝南郡の西平県のことでしょう。

細かな記録がありませんが、おそらくこの後も断続的に劉表領への攻撃が
あったのだと思われます。
劉備が夏候惇の攻撃を防いだ戦いも、その一つということだと思われます。

次に、魏書・曹洪伝から。

【別征劉表、破表別將於舞陽、陰葉、堵陽、博望。】

曹洪が劉表の別将を、4つの地域で破ったという箇所です。
時系列は不明です。
別将とは誰かも分かりません。
問題は、4つの地域です。
舞陽県は、潁川郡(もしかすれば、南陽郡の舞陰県の誤記かも)
陰葉は、おそらく南陽郡の葉県
堵陽県は、南陽郡
博望県は、もちろん南陽郡

少なくとも、劉表が生きていた時期の話になります。
このあたりで、南陽郡が曹操のテリトリーになっていったと
推測することは出来そうです。
断言はできませんが。

>劉表が劉備の勢力拡大を恐れて、目の届くところに置こうとしたんでしょうか?

【荊州豪傑、歸先主者日益多、表疑其心、陰禦之。】

先主伝で、劉備を新野に駐屯させた後の記述が、これですから
可能性はあるかもしれません。
しかし、201~208年の間に、新野を含めた南陽郡での戦線が維持できなくなり、
防衛線を下げたと考えるのが妥当だと思われます。

>文聘が北方守備を任されていたと見てよいですか?

【文聘字仲業、南陽宛人也、爲劉表大將、使禦北方。】

文聘伝には、これしか記述が無いため、何とも言えません。
文聘がどこに配置されていたのかは、まったく不明です。

小説家であれば、先の劉表の別将を文聘か劉備あたりに該当させても
面白いところだと思いますが…。

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kou********さん

2017/10/819:36:20

地理的な話をまず整理しますと、襄陽が漢水南岸にあり、その対岸に樊があります。
新野はそこから少し北にいったところで、宛県と襄陽の間くらいの地点です。
で、宛よりさらに北東、潁川郡との境に向かう道すがらに順に博望、堵陽、葉とあり、潁川との境を越えて舞陽があります。舞陽の南、南陽郡の側に舞陰があります。

つまり、曹洪の侵攻は舞陽から順に南陽郡の中に分け入りながら、劉表の別将を撃破していった、というわけです。

203年8月の曹操が西平(潁川郡)に駐屯して劉表と戦います。
曹洪・夏侯惇の戦いはこの時ではないかと思います。
つまり、曹洪が博望まで侵攻したものの、そこで夏侯惇が劉備に敗れていったん引き上げた、と。
もちろん、曹洪と夏侯惇の戦いは別かもしれませんが・・・。

さて、問題の樊城駐屯ですが、武帝紀では208年8月、劉表が死亡し、劉備は樊城に駐屯した、とあります。
おそらく、劉表が死んで荊州情勢が緊迫したので、襄陽の様子を探るべく樊城に入ったのではないでしょうか。あるいは、劉表の弔問でもしつつ樊城に入ったか。
ともあれ、武帝紀の記述によれば、劉表の死の直後か、せいぜい前後くらいのタイミングではないかと思われますが、どうでしょう。


文聘が南陽の守備を任されたのなら、劉琮が降伏した後も曹操に対面するのが遅れるというのは考えにくいので、やはり黄祖亡きあとの江夏郡を任されていたのではないか、と思います。
江夏郡も潜山山地より北側の中原エリアにもいくつか県があるので(張遼が攻略したのがこのあたりと思われる)、北方の守備、と言えると思います。

2017/10/817:05:31

>劉表のとこに落ち延びた劉備は、最初は南陽郡の新野へ配置されたはずですが、いつからか南郡の樊城まで後退していますよね。

後退したのではなくて曹操から樊城を奪ったのです。

曹操が新野攻めを命じた将のうち呂曂・呂翔を討ち取った。
怒って大軍を率いて来た曹仁を破り、
次に夜襲をかけて来た曹仁を破り、逆に樊城を奪う。
徐庶が軍師をしていた時期です。

やがて劉表が死に蔡夫人と劉綜は曹操に降伏、劉備は新野から領民をつれて樊城に逃避行、降伏の使者に来た徐庶に曹操の動きを聞き、襄陽に向かうが入城を拒否され、江夏に向かうが領民と共に移動したため追いつかれちりじりになる。

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