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京都の嵐山という場所は歴史的にどんな町だったのでしょうか?単なる交通の要所だ...

セルフプレジャーさん

2017/10/1619:29:37

京都の嵐山という場所は歴史的にどんな町だったのでしょうか?単なる交通の要所だったのでしょうか?それとも昔から観光名所だったのでしょうか?

私は嵐山に行ったことがないので、よく分かりませんが、地図で見ると京都市中心部からかなり外れた場所に位置しており驚きです。

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ms_********さん

2017/10/2303:14:43

たけしのカレー屋がありました

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tro********さん

2017/10/1711:22:08

まず名称の「嵐山」というのは渡月橋を渡った保津川(桂川)の
右岸にある山の名称で、天龍寺や竹林の小径があるところは
「嵐山」ではなく「嵯峨野」です。歴史的には町ではなく京の都
の中心部から遠く離れた田舎という位置づけで、平安時代は
現在の北野天満宮でさえ「北のなんにもない所」と言われたく
らいですから、平安時代は魑魅魍魎が住むところくらいに思
われていたのでしょうね。平安時代初期に嵯峨天皇が夏の離
宮を設けたことから、その地を嵯峨野と呼ぶようになりまし
た。このころには嵯峨野も開墾が進んで百姓が住むようにな
り田畑ができていました。嵯峨天皇の後もいくつかの離宮が
つくられ、1339年に亀山天皇の系統の離宮であっ た亀山殿
を寺に改めた天龍寺が建立されました。江戸時代に川越や練
馬は江戸への食料供給地でしたが、それと同じで嵯峨野は京
都への農産物の供給地のひとつでした。このため京の中心部
に住んでいる人の人糞は貴重な肥料として嵯峨野で利用され
ました。京野菜のいくつかは嵯峨野が発祥の地です。

kir********さん

2017/10/1623:47:00

そこは、町ではなく農村で、大きなお寺がいくつも平安時代からあった。

嵐山というのは、桂川の右岸(西側)にある丸い小山の名です、町の名ではない。

だが、対岸から川越しの景勝が美しいので、山と川辺をまとめてそう呼んだのだが、正確には 「嵯峨」という地名。京福電鉄が終点に「嵐山」という駅を設置したのが 誤解の背景。

嵯峨の地に平安時代に開設された大覚寺は、天皇家の別邸で「嵯峨御所」と呼ばれた。その西側の清凉寺も唐に留学していた僧によって開かれる。

電車の終点駅の正面にと広がる天龍寺は室町時代に開かれ、周囲に塔頭が散在している後年の地図に伝わっている。
寺があるということは周囲の田畑を耕している農民がいるということ。

江戸時代になると、豪商・角倉了以が京北や亀岡から流れて来る桂川(保津川/大堰川ともいう)に 筏が流せる航路を作り、都の木材需要に応じるべく、この嵯峨の地に 丸太の揚陸設備を作ったので 木材問屋も容易に誕生する

でででさん

2017/10/1620:42:04

平安時代の別荘地(離宮とかがあった)

江戸時代から観光名所です
景観維持のために幕府はお金を出していました

明治になり嵐山が荒れに荒れて
不思議に思った大久保利通が勝海舟に聞いた時にも同様のことを語っています

ama********さん

2017/10/1619:59:24

京都の僻地

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