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江戸時代は小判が流通していたかと思えば、実際は藩札みたいなものが多く使われて...

dyw********さん

2017/12/1602:13:18

江戸時代は小判が流通していたかと思えば、実際は藩札みたいなものが多く使われていたのですか。

小判とか、銀貨とか、銭(銅銭、鉄銭)と言った金属でできた貨幣がグルグルと世の中をまわっていたのか。

あるいは、諸藩が発行した藩札が多く流通していたのですか。
忠臣蔵の赤穂の話でも、赤穂藩が振り出した藩札の引換の話が出てきて、赤穂藩は豚ずらしないで、当時としては結構良心的な対応だったみたいな話が出てきますね。
紙のおカネも、かなり使われていたのですか?

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dai********さん

2017/12/1814:52:40

いや、少なくとも西日本中心に銀札(藩札)は庶民にも商人にも広く使われていました。銀札も決して高額の額面ばかりでなく、多く見られるのは「銀一分(1/10匁)」とか「銭匁札」(100文を銭1匁に換算)などです。藩札も、今の日本銀行券も発行元の債務証券ですよ。銀札は本来、藩による銀準備(正貨である丁銀)をもとに発行される兌換券が名目でしたが、実際に藩札を多く発行したのは洪水など数多くの災難に逢ってきた財政状況の悪い藩が中心なので、充分な銀の後ろ盾もなく多額に発行され、挙句の果てが銀一匁札が銀0.何匁にしか交換されないことは普通でした。

銀札が多く発行されたのは元禄年間頃からですが、一旦宝永4年に禁止され、享保時代にデフレとなり、又飢饉などにより再び解禁され延享年間にはさらに多額の銀札が発行されています。赤穂藩の藩札なら元禄時代以前の筈です。赤穂は塩の産業がありましたから財政的には他藩よりは良かったのです。

江戸時代に庶民中心に流通していた、つまり日常使われていたお金と言えば、銭と銀札です。現在でも古い蔵や民家から出てくる江戸時代のお金と言えば、大半が銭で、古くボロくなった銀札です。小判なんてめったに出てきませんよ。つまり殆ど一般には使われていなかったのです。藩が年貢米を大坂で換金したり、参勤交代の費用の多額の支払いに使用したり、堤防の普請など公共工事の支払いに使用されたぐらいです。今でいえば十万円金貨みたいなものですから普段の売買に使用できるような代物ではありません。一分金でも小判の1/4の分数貨幣ですから、庶民にはほとんど使用の機会はありません。

二朱金や、一分銀などは幕末に登場したものですが、それでもかなり高額です。今の5千円や一万円札のようなものですが、現在でさえ一万円札などお釣りで迷惑がられるぐらいなのに、江戸時代ならなおさらです。蕎麦代を一分銀で支払ってお釣りをくれなど有り得ません。一分銀が銭何文かは日々の相場によって変動したのですから計算も面倒です。

さて、西日本の銀(丁銀)ですが、現代人から見れば何と不便なお金であることでしょう。いや、商人にとっては重さで価値を計るのは極めて合理的だったのです。しかも金貨と違って十進法ですから。でも、丁銀なんて今どき古銭としては小判以上に出てこないのです。なぜか。

最初は丁銀も一々計るのは面倒ですから「銀500匁」などとして包銀として、それも大変多額ですから大口の商取引に使われました。丁銀も一本で現在の価値で何万円から十万円以上ですから庶民が普段使うことはありません。せいぜい旅などで豆板銀を持ち歩いてその都度両替屋で銭に両替して使ったぐらいです。

商人も決済は正貨である包銀の現物より手形取引など信用取引が次第に増えて行ったのであり、江戸時代を通じて経済が発展していくのとは裏腹に丁銀の流通量は次第に減少しているのだが、これはその証左です。まあ、丁銀は江戸時代の後半に南鐐二朱銀や一分銀などに改鋳されていって現物は少なくなっていったのですね。小口の売り買いは専ら銀札だったということです。今でも江戸時代からの豪商の旧家では多量の銀札の束が出てくるのですよ。でも丁銀なんてめったに出ない。

幕末になれば、主に流通したお金は天保通寳、寛永通寳鉄銭、文久永宝そして銭匁札が中心です。「銀匁」でなく「銭匁」と言ったのはそれだけ銀が無くなっていったということです。幕末の高額硬貨はもっぱら二分金です。それも低品位貨幣や偽造も横行しました。幕末の重さ最小の万延小判や品位最低の安政丁銀でさえ流通量は本当に少なかったのです。

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u7m********さん

2017/12/1611:56:59

他の回答に詳しいので重複は避けますが、藩札は今の紙幣というより債券証書みたいなもので、それを庶民が日常遣いにしていたことはほとんどなく、また発行されたのも多くが幕末~明治初期です。
金貨も額が大き過ぎ、大判は完全に「記念品」のようなもので、小判すら幕府や藩が公共工事をしたり、年貢米を業者に売り渡したり、大店の仕入れなどの場合以外余り使われなかったはずです。ほとんどの場合は朱金、せいぜい分金で間に合ったはずです。あとは銅貨です。なお、西国では金貨はほとんど使われず、銀を量って使ってました。おそらく東国に多い金産地を徳川幕府が抑えていた一方、銀産地は西国に多く、かつ外様が多かった影響でしょう。
少なくとも江戸時代前期までは通貨はその金属価値と等価であり、物々交換のようなものですから、通貨として何を使ってもよかったとも言えます。特に銅貨の単位の1文は得てして銅貨の製造価格を下回る場合があり、中国の古銭や劣悪な私鋳銭がかなり使われていました。

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son********さん

2017/12/1611:08:08

藩札は、経済的に苦しくなった藩が、貨幣量を増やすことで財政状況を改善しようとして取った政策です。

仰る通り、紙幣の価値というのは本来はフィクションというか、万一の時は国や藩が金銀などの正貨と引き換えてくれますよ、という暗黙の保証のもとに成り立っているものなので、藩の財政状況が再び悪化して信用が低下し、取り付け騒ぎや打ちこわしが起こるということも、一部にはあったようです。

幕府は藩札発行を何度か禁止していますが、諸藩の財政救済のために許可していたこともあり、また禁止されても幕府に無断で発行している藩が多数あった、というのが実情です。

普及した理由の一つとして、持ち運びに便利という利点があったことも否定できないでしょう。

zha********さん

2017/12/1610:59:48

地域によります。元禄時代で西日本の多くの地域、長野の一部、東北会津などで札が使われていましたが、多くは現金若しくは手形になります。質問者様が言われる小判は、西日本では殆ど流通していません。明和頃より定率銀が使用され、次第に分銀が銀でありながらも金表示という形に移行していきます。
ですから、年代の軸を構成して考えませんと、同じ質問でも答えが違ってきます。
先ず藩札ですが、最初現物が最初に残っているもので言えば私札が伊勢で発行され、寛永年間には大坂方面で普請切手(切り手形=札)が発行されます。その後、寛文年間に、一部の福井、尾張等で藩札が発行されますが、偽札の横行、兌換金の不足等で、信用力が低下していきます。次第に、銀遣いの西日本では、従来は切銀で行われた釣り銀処理が禁止されることにより、切銀の代りに札が台頭してきます。要は切銀が行われていた地域に札の流通が顕著に見られるという点は理解できますね。この札が幕府の貨幣発行権に抵触した時に、幕府は札の停止処分を行います。これが、宝永四年になります。この時点で、伊勢神宮領以外の藩札が全国から全てなくなります。この禁止が解かれるのが、享保年間になります。ここから西日本で札が再度流通し始めます。この頃、銭の材料の銅の産出量が低下し、銭相場が2500文で一両位になります。公的相場は4000文ですので、銭が高くなったことがわかりますね。銭不足は釣り銭不足となり、経済が停滞しますね。そこで元文年間に鉄銭ができます。この鉄銭の生産により、銭相場は4000文前後に落ち着いてきました。
しかし、現在の日本同様、借金で膨張し始める経済に対して、貨幣供給量が追いつかない状況が生じ、一部では兌換保証能力のない藩札が乱発されるようになり、額面で岡山藩の9割減、広島藩の500分の一という札の価値が暴落せざるを得ない地域も出てきます。
但し、これらの札は原則領内限りで、基本的に近隣地域くらいしか流通していませんが、札という観点からは、正金銀より札が流通していました。正金銀は他領との貿易決済に使用されていました。
この札が江戸時代一番多く発行されたのが、安政から慶應にかけての幕末になります。黒船に伴う軍事費用の増大です。しかし、日本全国に藩札が流通するのは、明治二年から四年の間です。
分からなかったら、この時代の何処とピンポイントで質問してください。

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for********さん

2017/12/1610:13:04

↓のサイトに、江戸時代の貨幣の流通高の推移が書かれています。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J078.htm#F01
これによると、忠臣蔵の元禄時代では、藩札は全体の1%以下でしたが、
幕末になると、2割近くになっています。

nan********さん

2017/12/1603:32:48

江戸時代の通貨政策は、ごちゃごちゃです。
両、分銀、銅銭はまだいいとして
それに加えて米も通貨と同等に扱われていました。
領地を持つ大名は年貢米を金に替えてそれ以外のものを買う
経済が拡大すると金や銀などが足りなくなるため
藩札や金の預かり証明書もお金と同様に使用する事も出来ました。

金は量が限られているため人口が増え経済活動が大きくなると足りなくなります。
そのため本来価値が無いものに政府が保証する形でお金とするということは
日本に限らず行われていました。
それを最初にやったのがクレオパトラだと言われています。
あまり価値が高くない銅でコインを作り数字を記載してその数字と
小麦を連動させたのが始まりだといわれています。

藩札もそれと同じで大名は領地から取れる年貢米という財源があります。
各藩が、それを担保に保障する形で藩札を発行していたわけです。

話はそれますが、ビットコインは誰もどこの政府も価値を保証していません。
ある日突然無価値になる危険性もあります。
政府が禁止したりすれば消えてなくなります。
政府保証があると言ってもジンバブエのように政情不安で
国に資源も産物もない国では価値が低く無価値に近い状態になりますけど
なので先進国の通貨は、価値が高く安定しているわけです。

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