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徳川慶喜は腰抜けだったのですか?

qty********さん

2018/2/1804:18:44

徳川慶喜は腰抜けだったのですか?

それとも、先見性溢れる知将だったのですかね。

徳川幕府最後の将軍徳川慶喜はわずか一年程度の在任期間だったそうです。
しかし、日本の開国では決して忘れてはならない人物だそうですね。

大阪城ではあまたの幕府側の兵たちに徳川慶喜は「自ら戦闘指揮を執って朝廷側と徹底抗戦を行う!」と明言して約束しておきながら、数日以内に数名の部下たちを連れて江戸城に逃げたのだそうです。
置き去りにされてしまった大阪の兵たちの失望感は相当なものだったとも。

さらに、江戸城も無血開城してしまい、当時の世間からは腰抜けだとか裏切り者だともいわれ続けたそうです。

しかしながら、徳川慶喜は相当な先見性を持っており、自身がどのような誹りを受けようとも、日本を守り抜こうとしたのだという解釈もあるようです。

実は天皇を掲げる朝廷側には、女王抱えていたイギリスが支援し続けていたそうです。それに対して幕府側にはフランスが支援を申し出ており、このままではイギリス対フランスの代理戦争になってしまい、日本各地でおびただしい死者が出てしまう。
それどころか、日本が内戦で疲弊したところを欧米列強によって領土を食い物にされかねない、それを防ぐために徳川慶喜は天皇こと朝廷側に、恥を忍んで徹底的に恭順の意を示し続けたのだというものです。

皆様はどちらの見方がより真実に近いと思われますか? ぜひ皆様のご見解をお聞きしたいです。

それともし、徳川慶喜や側近たちがフランスの支援を受け入れて、イギリスが支援する朝廷側と徹底抗戦していたら勝敗や、日本の行く末はどうなっていたと思われますか?

幕末に詳しい方など、お返事お待ちしておりますね。

徳川慶喜,腰抜け,江戸城,イギリス,朝廷側,慶喜,焼け野原

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shi********さん

2018/2/1809:46:20

腰抜けでいいと思います。ただ、運が悪かったと思います。あのタイミングで将軍にさせられたという不運です。

自分が最高責任者として、最後まで何があろうと戦い抜くという重荷に耐える自信がなかったんでしょう。
先祖の家康のように負けても負けても最後に勝つまでどんな苦労にも耐えきる、という覚悟や強さを持てなかったんでしょう。

要するにやる前に諦めた。

「負ければ死ぬだけだ。だから構わん。」というような、ギャンブラー的な考え方をしない人間だったんでしょう。
こういう人間は、勝てると分かった勝負しかしないものです。
商売や、平穏な時代の政治には向いていますが、戦乱の時代の指導者には向いていません。
戦争に負けても生き延びる人間というのは、どうしても生き恥をさらす、という見方をされてしまいますから、その点でいえば不運だったんでしょう。その時代に向いてない人間だったんですから、産まれた時代を間違えた。


ただ、戦乱向きじゃない人間だと言うことは、逆に言えば出来るだけ血を流さない、被害を出さない考え方をする人間である。とも言えます。
だから、出来るだけ被害を出さない負け方をする。という発想も出来たんです。

その点は凄いと思います。腰抜けと呼ばれようがどんなに悪く言われようが気にせずに、思い切りよく江戸まで逃げ出してひたすら恭順したのですから。

損切り、という点で言えば高評価できると思います。
少なくとも、太平洋戦争時の軍部のように、勝ち目がない事を認められずにひたすら戦線拡大し、最後は本土を焼け野原にされたことに比べれば、遥かに優秀ですから。
この負け方についての判断は、勇猛な人間にはできません。腰抜けでないとできません。

だから、出来るだけ被害を少なくするように動いた。江戸を焼け野原にせずに済んだ。
そういう慶喜は腰抜けです。でもそれを全部非難する必要はないと思います。

質問した人からのコメント

2018/2/23 02:57:46

なるほど、勇猛果敢な人間は戦争の指揮官には向いていても、いつまでも敗戦を受け入れられないと一面があるのですね。

それに対して、徳川慶喜は平時の政治家のような才があったようです。 戦争が長引くことで出る犠牲を最小限に抑えられたようです、これは腰抜けと揶揄されるような者にしかできない事でもあるのですね!

様々な見方があるようです、とても勉強になりました。

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ihg********さん

2018/2/1821:06:09

kc4********さん

2018/2/1820:44:36

政権維持にこだわって、戊辰戦争を長引かせている間に欧米の国に介入されなかっただけマシでしょ。江戸で焦土作戦をやらなくても済んだ。

貴方が将軍なら、植民地化されていた可能性が大だな

tam********さん

2018/2/1809:19:49

慶喜さんは頭脳明晰で育ちのいい若様です、将棋で言えばA級の実力
ですから何十手も先が読めたから緒戦で投了したのでしょう。食うに
も困らないし趣味も多彩、幕府を投げ出しても何ら心配なかったので
すよ・・・wwww(^^)/美人女優・石橋安奈

慶喜さんは頭脳明晰で育ちのいい若様です、将棋で言えばA級の実力...

ham********さん

2018/2/1809:06:52

幕府側が本気で新政府側に勝つつもりであれば勝てたと思います。徳川家が本気で新政府を潰す気になれば、幕府側につく大名もかなりの数になったでしょう。
慶喜にも分かっていたんでしょうが、やはり朝敵という立場にはなりたくなかったというのが大きかったんだと思う。
慶喜が大阪に留まり、関東からの援軍を待つ、もしくは慶喜が江戸に戻り、軍備を整え再度上洛すれば、日本はしばらくは内戦状態になるかもしれません。関ヶ原の合戦が再現されたかもしれませんね。
ただ、よく言われるように、イギリスやフランスなど列強による植民地化は無かったと思いますよ。日本は軍事大国でしたから、西欧やアメリカから来る兵力では日本軍に対抗できないでしょう。その点は清国などとは比べられないでしょう。唯一はロシアが北海道に侵攻した場合は防ぎきれなかったかもしれません。
いずれにしても、幕末当時は間違いなく腰抜けと評価されても仕方ないでしょうね。その通りですから。日本の将来を背負う覚悟は無かったんですよ。投げ出したんです。
しかし、結果として戊辰戦争や箱館戦争での犠牲はありましたが、列島規模の内戦という最悪の状況は免れた訳ですから、それは慶喜の判断が正しかったと言えると思います。

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fu_********さん

2018/2/1806:35:13

大奥を作ったせいで、貧困幕府でしたし、吉宗位しか平和ボケの多い将軍が多かった中で、英断を下したと私は思ってます。日本も尊王攘夷が吹き荒れ、これ以上、血まみれになるのを防ごうと思ったのだと思います。外国の凄さも脅威だと思われたでしょうし、
ただ、明治天皇が軍隊色を強めたので
これが歴史なのかなぁと思ってしまいますね。

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