ここから本文です

現在の解釈では、 邪馬台国が、日本国中どこに在ってもおかしくはないそうですが...

kha********さん

2018/3/904:14:17

現在の解釈では、
邪馬台国が、日本国中どこに在ってもおかしくはないそうですが、
では、箸塚古墳が卑弥呼の墓?というのも、可能性は低い話になりませんか?
勿論、大和説に囚われなければですが。

補足あれあれ、大和説さんのけっこう長文回答が取り下げられましたね。

何方かの、コピペだったんですかね?

どうせなら、私が九州説さんの返信を書き上げてから、取り下げて欲しかったと、思います。

私の返信が、御機嫌を損ねたようですが、その尊大さが嫌われるのですよ。

知恵袋は、全国区ですから仕方ないですよ。

首都だって、東京なんですから。私の返信を道連れにするなんて、大人げ無いですね。

閲覧数:
409
回答数:
10

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

pin********さん

2018/3/1007:13:32

現在の解釈では、「国の税金で歴史を研究しているエライ学者先生」、「書籍を売らんかなの歴史研究者」、「全国に無数と居るであろう、素人の自称邪馬台国研究者」等々が、昔からそれぞれ自説を展開していて、質問者の方の言われる、何処に有ってもおかしくない状況であるのは事実です」。
でも、「著者の陳寿」にしてみれば、「自分自身の文書構成力の問題や、後世の書写誤りや、誤植があるにしても、彼は現在の日本では、何でこんなことになっているんや!と、墓の中で困惑していると思うのですね、良く言われる、魏志倭人伝は、邪馬台国探しのパズル本ではないんで、彼は何処か一か所を念頭に置いて著作したのは絶対に間違いがないです」。
「早く読み取って欲しい!」というのが正直なんではないでしょうかね!
「邪馬台国近畿説」以外の考え方をされている方の「卑弥呼の墓の比定地(墳墓)」をチェックしたことが無いですが、全てどこかを記述してあるのかなと、思いますね。
「箸墓が卑弥呼の墓」と考えているのは、近畿説だけで、本当に邪馬台国が近畿以外であれば、「可能性が低い」と言うより、「箸墓=卑弥呼の墓」は成立しませんね!
と言ってしまいましたが、中には「邪馬台国は九州島にあったが、卑弥呼は箸墓に葬られている」と考えている方もいるようです。
最後に、設問では、「貴方は、何処だと思われますか」と問われていないのですが、私自身は、「陳寿と心を一つにして、九州島」だと思いますね!
日本史カテ暇なもんで、取り留めの無い回答ご容赦下さい!。

  • 質問者

    kha********さん

    2018/3/1118:37:52

    面白い展開ですね。

    これで関西に気をつかって、箸墓箸墓って箸バカに成らないで住みます。(≡^∇^≡)

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2018/3/13 01:29:26

権威主義の畿内説のかたが取り下げられ、
皆さんしっかり主張されるように成りましたね。
あとは、どの方もよく自然体で答えて頂きました。
ピンポン2さんは、以前も回答を頂けました。

皆さん、魅力的な説を有り難うございました。
万年山説もたいへんよかったです。有り難うございました。

「邪馬台国」の検索結果

検索結果をもっと見る

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/9件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

アバター

ID非公開さん

2018/3/1122:56:16

どこにあってもおかしくないのなら箸墓でもおかしくないんじゃないですか?邪馬台国から後の時代は全国的に大型の前方後円墳が作られます。その巨大前方後円墳の最初が箸墓です。しかも邪馬台国の時代とよくにてる。何か特別な存在であったことは間違いないんでしょう。

個人的には宇佐だと思ってますが。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

num********さん

2018/3/1117:13:18

・邪馬台国=大分県中津~宇佐
・卑弥呼の墓=宇佐神宮内の亀山

これで確定です。
『魏志倭人伝』にも、『記紀』神話にも、「考古学」的にも
ここまで完璧に合致する場所は他にありません。
それを延々と馬鹿げた推理合戦を繰り広げるとは、
日本の「歴史学」はどうしちゃったんでしょうかね...

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

kak********さん

2018/3/1111:12:14

●邪馬台国が、日本国中どこに在ってもおかしくはないそうですが
○というか「魏志倭人伝」の里程記事が「概略」に過ぎず、そもそも三国志において重要事項でもないので魏志倭人伝の記述だけを頼りすると「所在地をどこにでも膾炙することが可能」ということです。ジャワスマトラ説やエジプト説まであるくらいですからね。
箸墓古墳が注目されるのは築造年代が卑弥呼の時代におおむね合致することと後円部の径が「径百余歩」におおむね合致すること、被葬者と伝承される倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼に擬制することが出来なくはないこと、箸墓古墳に近い纏向遺跡が3世紀には関東から中国地方までの各地の土器が出土するからこの時期の中心地域であったことと考えられるからです。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

rob********さん

2018/3/1110:37:38

邪馬台国を語るに最も重要なポイントは、記紀には607年に行った小野妹子の遣隋使以降しか書かれていないことなのです。
しかし、隋書倭國伝には600年にもそれ以前にも遣使は来たと書かれています。

この違いは何か?

600年までの日本は中国に朝貢していました。後漢書には、光武帝の建武中元二年(57年)にも倭奴国が遣使してきたと書いています。

「開皇二十年(600)、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。
使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」
開皇二十年(600)は推古天皇の八年にあたります。


607年以降が現天皇の先祖がヤマトから遣わせた遣使であるから600年の遣隋使は知らないので記紀に書かれていないのか?、日出ずる国の天子と言って日本が独立宣言をやったので過去を封印したのか?、この二つしか考えられません。
また、607年の遣使の経路には「竹島」の文字も見られるので、危険の伴う島根県の隠岐の島経由で行ったと考えられます。
これは、600年以前の中国への遣使は大和朝廷が畿内から中国に派遣していないことになります。

景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
これは島から島の安全な宗像から沖の島ルートと考えられます。


竹内文書によれば、九州の万年山(はねやま)が古代の天皇(上古2世)の陵墓とされています。
この標高1140mの台形の山、万年山を山台国に見立て(発音を元に中国の漢字を当てはめ邪馬台国)架空の国家をでっち上げたと考えられます。

何故架空の国家をでっち上げたのか?

それは日本が中国から見ると海外にあり、小国が乱立する九州の小国だと知られたくない、けど最新の文化、文明は欲しい、また安全保障上仲良くしておくべきだとの考えから大風呂敷を敷いても相手には判らない。
そして、仮に魏(中国)に攻められることがあっても相手に特定の国を絞らせない、万年山だと標高が高く九州の真ん中にあるので攻めにくい、攻めても何もない。

鬼道を操る巫女、日巫女。これも朝貢国を見下す中国風の表現で卑弥呼になった訳ですが、この卑弥呼のモデルが、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が東征の途中立ち寄った速吸の瀬戸にいる早吸姫(ハヤスイヒメ)に建国を請願したと早吸日女神社に残されています。
早吸日女神社には浦島太郎が亀に乗り玉手箱を持っているところと竜宮城が屋根に乗っています。
また、早吸日女神社の近所に椎根津彦神社があります。
椎根津彦神社は、神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。

この早吸姫こそが鬼道を操る巫女であり、神日本磐余彦尊のちの神武天皇からも尊敬の対象とされた占い師が早吸姫であります。

大分市佐賀関にある早吸日女神社の近くから銅が産出され、近くには金山(カナヤマ)という金の産出される場所もあります。また近くに猫塚古墳があります。

佐賀関の隣の神崎の築山古墳からは石棺に入った女性の人骨が発見されています。そしてもうひとつあった石棺からは男性二人と女性一人の人骨も出ています。副葬品は鏡、鉄の剣、勾玉、所謂三種の神器。
早吸姫が神武天皇と面会したのか?それとも既に亡くなっていたかは不明です。
更に隣の坂ノ市では亀塚古墳があります。

もう一つの石棺に入っている人物は、早吸姫(卑弥呼)の弟、給仕をする男、娘のトヨであると思います。
古墳時代になって、前方後円墳ブームが起き、バラバラに亡くなっていたのを、それぞれの遺体を一つにまとめたのが大分市神崎の築山古墳だと考えています。累代の墓として一つにまとめたのでしょう。

つまり、九州の小国、或は小国の国主同士が知恵を出して架空の国である山台国を作り上げ、既に亡くなっている巫女を国王に仕立て上げれば、魏が攻めてもターゲットを絞られない。だから金印を貰っても渡す相手もなく、神様の島「沖の島」に置いてきて、神に捧げた。

『卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。』
これは三国志に載っている話です。
「壹與」つまり「トヨ」これは大分県の「豊の国」を指すと思います。

また、台形の山、万年(はね)山のあるトヨの国には神武天皇の父親と同じ名前のウガヤフキアエズ王朝があったとされる豊国文字(トヨクニモジ)が発見されており、もし邪馬台国が実在するならば、それに相応しい縄文の王朝があったとされる大分県、宮崎県、鹿児島県が山台国(邪馬台国)にあたる。



大分県には、縄文の王朝である神武天皇の父親と同名のウガヤフキアエズ王朝があっとされる上記(ウエツフミ)が発見された場所です。
上記(ウエツフミ)は神代文字であるトヨクニ文字で書かれています。

神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)のちの神武天皇はウガヤフキアエズ王の第4子とされていますが、親子の契りを結んだ養子ではないのか?だとしたら今後の推理がずばっと収まる。
大分県の宇佐市には八幡宮の総本社があり、神武天皇の代から皇室が気を留めていることを感じる。
何故かは判らないですが、出雲族の八岐大蛇退治の神楽保存会が日本で最も多いのも大分県です。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

nak********さん

2018/3/1102:11:01

福岡や大分、畿内には、3世紀中頃の古墳がいくつかあるのですよ。
椿井大塚山古墳の発掘は、日本の古墳時代の歴史を塗り替えちゃいました。
しかし、それ以前にも3世紀の古墳が発見されていたのです。

木津川市加茂町の塚穴古墳。
でも、当時、考古学者は「何かの間違いだろ」ということで無視することにした。
しかし、椿井大塚山古墳の発掘で、「塚穴古墳はどうしよう・・・」。
本来は国史跡になってもおかしくないのだけど、「ま、いいかあ・・・」・
これ、専門家でも極めて一部の人しか知らない事実なんです。

古墳時代前期の3世紀後半になると、畿内に集中するから、大和王権が畿内で勢力を持ったことは否めないでしょ。

さて。
そこで気になるのが神武東征の神話です。
日向高千穂から出撃した神倭伊波禮毘古命(のちの神武)が、諸国を平定しながら大和に至り、そこに大和朝廷を興した。
また、高千穂から派遣された建御雷神建御賀豆知命が出雲を降伏させ、国を平定した、というものです。

ところで、この九州勢力が卑弥呼に関係しているかどうかという確証はありません。
奈良と大阪の境にある生駒は、ナガスネヒコの勢力圏にありました。
神倭伊波禮毘古命の軍は、兄である五瀬命が負傷し、転戦を余儀なくされたのです。
そして神倭伊波禮毘古命の軍は紀州から吉野へ進撃して、ナガスネヒコの背後を突きました。

というわけで、判っていることは3世紀中頃、九州と畿内に大勢力が存在した、ということだけです。
箸墓古墳が卑弥呼のものであるのかどうかは判然としません。

ただね。
弥生文化のルーツが中国南部、揚子江流域にあったことはほぼ確実なのです。
さらに後漢の時代には、その地で多くの仏像が作られています。
つまり、揚子江流域に進出した勢力は海洋民族だったのだということです。
おそらくはその海洋民族が九州に進出した。
だから海神である住吉系が日本では最有力となった。

九州の稲作文化、半端じゃなかったでしょ?
ただ、それが卑弥呼と関係しているのかどうかまでは、何とも言えません。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる