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右大臣実朝(太宰治)において語り部としての「私」とは 具体的に誰のことを指す...

mat********さん

2018/3/1712:54:09

右大臣実朝(太宰治)において語り部としての「私」とは
具体的に誰のことを指すのですか?

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sei********さん

2018/3/1713:00:37

https://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/15511105.html?__ysp=5Y%2Bz...

この作品は、実朝の死とともに出家し、隠棲していた近習が、
実朝の思い出を語るという独白の形式をとっており、
ときおり、その合間に、実朝の言葉がつぶやくように、ぽつりぽつりと発せられます。

平家ハ、アカルイ。……アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

箴言とでも言いましょうか。
漢字カタカナ混じりの表記と相俟って、
実朝の言葉が、読む者に心に深く、ずしんとくる感覚があります。

太宰治という人は、読む人がハッとするようなフレーズを作るのが上手いですね。
「生まれてすみません。」
「富士には月見草がよく似合う」
「子どもより親が大事、と思いたい。」

などなど。
現代に生きていたならば、売れっ子のコピーライターとなっていたかもしれません。


ところで、この作品の実朝に、イエス・キリストの姿を重ねる人がいます。
なるほど、そうかもしれないと思います。
平家を滅ぼし、有力な御家人一族を根絶やしにし、
近親相討ってきた源氏直系最後の血筋として、
その血塗られた一族の原罪というべき罪を背負い、
静かに自分が滅びていく運命を受け入れる右大臣実朝。

確かに、その時代を記述した歴史書である吾妻鏡と実朝の金槐和歌集を併せ見ますと、
実朝独特の、俗を超越した不思議な無常観というものを感じざるを得ません。

そうかそうか、太宰さんは実朝をそのように捉えたのか。
当時彼は「駆け込み訴え」といった聖書をベースにした作品を発表するなど、
聖書にのめり込んでいましたから、
作品の背景の、太宰さん自身に興味のある方にとっても面白いでしょうし、
それから離れて、源実朝という人間の、
その独特の無常観の根源は何かということを、じっくり考えるにしても、
この作品はいろいろなインスピレーションを与えてくれるものです。


なお、この作品の実朝の姿に、太宰自身を重ねる人もおりますが、
自分は、実朝を暗殺した甥の公暁に、
より、その似姿を看て取ることができると感じます。
死のうかと思っているんだ。……京都は、いやなところです。
みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持っていません。
だから私の住むのに、ちょうどいいところなのです。
軽薄な野心家には、都ほど住みよいとこはありません。
……どうしてだが、つい卑屈なあいそ笑いなどしてしまって、

自分で自分がいやになっていやになってたまらない。
……死ぬんだ。私は、死ぬんだ。

太宰さんの作品は、どこか必ず彼自身を彷彿とさせる描写が出てくることが多く、
それが太宰さんの太宰さんたるゆえんなんですが、
公暁が、一族の故郷である東国から逃れるように都に移り住み、
独り自分の行く末に悶々としていたところが、
故郷の津軽を離れ、東京で暮らしていた太宰さんにシンクロするところがあったのかもしれません。

唯一、公暁の描写部分だけが、

源実朝の意識から、ふと現代に立ち返る瞬間でもあります。
これは誉め言葉でもあり、貶(けな)し言葉でもあります。
一言でいえば、太宰さんらしいとしか言いようがありません。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

dae********さん

2018/3/1716:23:14

実朝と言うと、晩年の急激な昇進(暗殺時点で太政大臣・三条公房、左大臣で
以降も何かと幕府に関わる事になる九条道家に次ぐ太政官ナンバー3)や渡宋願望(結局
船の設計ミスか失敗に終わったが)等の現実逃避等文弱で朝廷の威も借りていた頼りない
お坊ちゃんな印象もありましたが、本作の実朝は、政務においても大事な所では
妥協せず、そうした語り方等何処か俗人を超越していたような雰囲気がありました。
天然痘を患ったシーンにもそうした人となりがよく表れていたと思いましたが、
政子、本人に面と向かって「元のお顔が見たい」って、命が助かっただけでも・・・・・
でしたが、「スグニナレマス。」というような返答をしたあたりにもあるがままの
運命を受け入れるという意志があったという事だったのでしょう。

「仕事は有能にこなすけど、何だか陰気な雰囲気がある。」な北条義時に対する評も、
「ああ自分もそういうイメージだなあ。」と言うか、的を得ていたと思うけど、
全体的にこの近習の語り、「吾妻鏡」を引用するのも当時の歴史の勉強にもなった
とも思うけど、やや冗長だったのが難点でしたか。しかし、この頃の太宰は石原美知子
と結婚して2児の父親になり、これ以外にも何作か有名作を出す等公私共々比較的
充実していたはずだったのですが、心のどこかではやはり破滅願望みたいなものを
抱えていて、実朝を描く事で、「自分に対する救い」を求めていたのかもしれません。

良くも悪くもこの鎌倉時代の最重要人物をいち早く違った切り口で着目した太宰は
やはり異形の天才だったという事でしょう。評価は冗長だったのを差し引いても「良い」

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