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幕末で強かったのは薩摩藩ではなく佐賀藩だったのですか???

loo********さん

2018/3/1817:07:30

幕末で強かったのは薩摩藩ではなく佐賀藩だったのですか???

●幕末最強 佐賀藩武雄部隊
https://rekijin.com/?p=17504

あまり詳しくないので教えてほしいでゴワす。

補足回答ありがとうございます。

リンク先の記事では「庄内藩」も最強!とあるのですが・・・

この「庄内藩」と「佐賀藩」ではどちらが
強かったのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

ina********さん

2018/3/1817:45:12

佐賀藩は長崎を囲むように隣接し、福岡藩と1年交代で長崎の警備を行っていました。
その立場を利用して佐賀藩は密貿易でぼろ儲けをしたり、先端の兵器を入手したりしていました。
武雄軍は800人以上の兵士全員がスペンサー銃を装備するなど、当時のどの部隊よりも近代的な装備をしていたんです。

ベストアンサー以外の回答

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2018/3/2110:54:10

佐賀藩はアームストロング砲を改良して藩内で量産しています。
他の藩がいくら新式銃を揃えていても、その射程の外からアームストロング砲改で砲弾の雨を降らされればひとたまりもありません。

薩長軍は庄内藩に蹴散らされていますが、その庄内藩を打ち破ったのが佐賀藩です。

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まりえさん

2018/3/1818:37:34

幕末、佐賀藩は藩主の鍋島閑叟(直正)主導のもとに藩政改革を行い成功し、蘭学研究をも藩校教育と並行して推進し多くの人材を養成しました。改革政治の原動力となったのは、何にもまして、閑叟の西欧文明への探究心であり、自らオランダ軍艦に試乗し、工作機械を操作したりなど、家臣の陣頭に立って采配をふるいました。長崎海軍伝習所へは幕府からの派遣生40名をオーバーする48名の家臣を送り、総勢の37%を占めたと言います。海外からの軍事的侵略と言う危機感を、ペリー来航より半世紀近くも早く覚知した佐賀藩は大砲と軍艦を造ることに全力をあげ、ペリー来航とプチャーチン来航の時には既に大砲製造に成功していた唯一の藩でした。有名な伊豆国韮山の江川塾の反射炉が完成したのも佐賀藩の技術提供でした。鍋島閑叟は改革を成功させ、長崎警備役をフル活用して洋式軍事工業を導入。十一代将軍家斉の娘婿でもあり、蘭癖大名・算盤大名の異名を取り、人々から肥前の妖怪または乱世の奸雄と呼ばれた閑叟は家臣たちを機関車のように引き回していました。

幕末の会津若松城攻撃には、佐賀藩多久領主の多久長門茂族の軍が、アームストロング砲を中心に出撃し、慶応四年(1868)八月二十五日、若松城外の東山(小田山)から砲で城を攻撃。二十七日、砲撃によって城は猛火に覆われました。会津軍も城外で反撃を展開しましたが、ついに明治元年九月二十二日、降伏開城するに至りました。

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