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織田信長と豊臣秀吉が幕府を開かなかったのは何でしょうか?

kin********さん

2018/4/2122:19:11

織田信長と豊臣秀吉が幕府を開かなかったのは何でしょうか?

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ban********さん

2018/4/2217:24:49

日本史に幕府と呼ばれた政府は三つあります。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。
実は、室町も江戸も、概念上は「新しくできたもの」ではなく、鎌倉の「幕府」の理念を引き継いで復活させたもの、なんです。
鎌倉幕府は、はじめての武家政権といわれます。その理由は、はじめて「封建制度」によって成立した政府である、ということです。
「封建制度」とは何か。「御恩と奉公」です。つまり、武士たちの「土地の私有権」を最大限に認めてやり、そのかわりに軍役や賦役という直接労働により将軍(中央政府)に奉仕させる、ということです。
「封建制」の反対語は「中央集権制」です。土地のすべては理念上は中央政府(天皇)のものであり、すべての土地から税金を取る権利が(理念上は)ある、というのが、「大化改新」以来ずっと、この国のタテマエでした。
しかし、「武士」たちは、それが不満です。
武士というのは農場経営者のことで、土地を「一所懸命」で守る者のことをいいます。つまり、自分の領地からの収入は一義的に自分のモノであるべきだ、中央政府に持っていかれれるのは納得できない、という者たちが、京都の朝廷の命令を聞くのをやめ、鎌倉に新しく誕生した「鎌倉殿」と呼ばれる武家の棟梁のもとに共同組合をつくった、これが「幕府」と呼ばれるものの本質です。
つまり、「幕府」のもとに集まった御家人、のちに大名と呼ばれるようになる者は、自分の土地については「王様」のようなもので、それが一定の契約関係(戦争のときは自前で馳せ参じます、そのために常に準備します、という約束)を結んで、集まって国を形成している「分権政府」が、幕府と呼ばれるものです。

天智天皇、桓武天皇、平清盛、後醍醐天皇、こうした「強力なリーダーシップで一代で乱世を纏め上げ、トップに立った人物」というのは、必ず、国をまとめるために強力な中央集権志向になります。国の財産はすべて中央が集めたあとに分配する、それが正義である、というポリシーです。
戦国時代を九分九厘まで纏め上げた織田信長、その思想をそっくり受け継いだ豊臣秀吉、彼らが「中央集権的な政治」を志向したのは、ごく当然といえます。日本中の大名というのはすべて自分の部下にすぎず、自分のたてた大方針に従って領地を治め、上の都合で容赦なく配置転換させられ、統治能力がなければ文句を言わさず取り上げる。こうでなければ、いままで乱世だった国を統一支配できません。
だから、信長も秀吉も、「幕府」という古いシステムを踏襲しなかったのです。カリスマである自分に全部任せればよい、間違いない、というのが、織田政権であり、豊臣政権です。

しかし、これは実は、元来の「武士のポリシー」に真っ向から反するものでした。自分の国は自分の考えで治めたい。中央政府に手を突っ込まれたくない。落ち度もないのに石高が同じだからといって他の土地に簡単に移されるなんて冗談ではない。こういう不満が、豊臣政権の末期には、溜まりに溜まっていた、といえます。みんな、息が詰まる中央集権制はゴメンだ、関白なんていう、武士の心がわからない「商人みたいな貴族」がトップの政府はもうイヤだ、武士の心がわかる棟梁が治める国がほしい、とみんな思っていたんです。
これが、徳川家康が関が原で勝てた根本理由です。

だから、家康は、昔ながらの「征夷大将軍」の称号を取り、昔ながらの「御恩と奉公」を基本にした「武家政権らしい武家政権」を復活させたのです。大名(藩)は自分の領地を独占的に治める、税も中央には取られない(そのかわりに参勤交代やお手伝い普請はあります)、中央政治はすべて幕府がやるので諸藩は一切口出ししない。これを「幕藩体制」といいます。
こういう「昔ながらの体制」でないと、武士というのは、安心できないものなのです。
それを復活させたから、「幕府」は長続きした、といえます。

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axy********さん

2018/4/2314:48:23

幕府と言う概念が生まれたのが江戸中期だから。

「幕府」は中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。漢代には大将軍などの高位の将軍が幕府を開き、幕僚を置いて政治をとることが多くなった。日本では近衛大将の唐名となり、「幕下」ともいった。
平安時代の蝦夷との戦いの時の最高司令部を陸奥多賀城に設け、ここを鎮守府将軍の鎮守府として「遠の朝廷」と敬称し、非常時には陸奥・出羽の行政及び軍事の専権を持つものとされた。これが幕府の祖型とされる。奥州平泉に本拠地を構えた奥州藤原氏は、三代目当主の藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられて権勢を振るい、本来は非常時のみであった将軍の権力を常に行使した。
源頼朝が鎌倉に武家政権を創始したことから、居館を幕府と呼ぶようにもなった。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後の建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、以後代々の首長もまた頼朝を継承する地位の表象として征夷大将軍職に就いたことから、幕府の主を将軍とする通念を生じた。征夷大将軍を中国風に覇者とみなし、覇者の政庁の所在地として「覇府」とも呼ばれる。
「幕府」という言葉が将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように観念的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、藩と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「公方」などと呼ばれており、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。

oia********さん

2018/4/2216:17:18

信長に幕府を開くつもりがなかったのかどうかは、実際のところはっきりしません。
信長が自身の政権構想を明白に示す前に、本能寺の変で死んでしまったからです。
ただ、信長は右近衛大将及び右大臣に就任した後、この官職を辞任しています。実は源頼朝も征夷大将軍になる前に、右近衛大将と右大臣に就任しこれを辞任するという行為をしており、信長はこれに倣った可能性があります。
この点で、信長が後に征夷大将軍に就任し幕府を開くつもりだった可能性は、比較的高いと思われます。

豊臣秀吉に関しては、なろうと思えば征夷大将軍にもなれたのはほぼ確実です。
征夷大将軍には源氏しかなれないというのは、明らかな誤りであり、実際には藤原氏も征夷大将軍になっていますし、平氏を称していた信長にも、朝廷から征夷大将軍就任の打診がきています。
ですので、秀吉はあえて幕府を開かなかったと言えます。

では、その理由ですが、単純に幕府という体制に魅力を感じかなったからだと思われます。
秀吉の時代において過去を振り返ると、鎌倉幕府は2代目3代目将軍が暗殺され、3代で源氏が断絶しています。室町幕府は南北朝や、足利家の骨肉の争い、そして戦国時代とその治世は全く安定せず、将軍が暗殺される事もあるなど、不安定極まりない政権でした。
これを考えれば、秀吉が幕府では駄目だと考えても全く不思議はありません。

そして、秀吉は関白という最高の位につく事に成功します。
関白になれた以上、それよりも下である征夷大将軍や幕府という体制に拘らなかったのも全く当然と言えるでしょう。

dan********さん

2018/4/2209:21:56

朝廷からの反発があったから。

loo********さん

2018/4/2205:43:49

Q「織田信長と豊臣秀吉が幕府を開かなかったのは何でしょうか?」

「織田信長」は朝廷より「関白、大臣、将軍」の三職を推任される
中で家臣の「明智光秀」に討たれ死んだために
幕府を開く開かないどころか三職にも就れず
もちろん「幕府」を開くこともできませんでした。

次に「豊臣秀吉」は関白になったため
将軍を長とする武家政権である幕府は開かずに
いわゆる「豊臣政権」を築きました。

くんまさん

2018/4/2123:41:34

征夷大将軍は朝廷から任命される役職ですが、信長は朝廷など眼中にありません。

自分がこの世で一番の存在と思ってますから、下の者に与えられる役職に興味なし。

秀吉は征夷大将軍を望みましたが、戦で家康に勝てずに断念。

関白という地位に昇った事で、征夷大将軍という役職は不要になる。

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