秀吉の子どもについて

秀吉の子どもについて 秀吉の実子は、4人いて側室・南殿との間に1男1女、淀殿との間に2男の子どもがいた。 最初の子は「石松丸秀勝」、秀吉が長浜城主になったばかりに生まれ幼くして病没した。 という説を見たのですが、出典はどこでしょうか? もし事実ならば、残りの子ども3人は(一人は秀頼?)どうなったのでしょうか? ご存知の方いましたら、ご回答よろしくお願いします。

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豊臣秀吉の実子 *側室:南殿との間の子: 長男:羽柴秀勝(石松丸)※1 女(名前不詳) *側室:淀殿(浅井長政の娘・茶々) との間の子; 次男:豊臣鶴松※2 三男:豊臣秀頼※3 ※1羽柴秀勝(はしば ひでかつ) 【元亀元年(1570年)~ 天正4年10月14日(1576年11月4日)】 羽柴秀吉が近江国・長浜城主時代に側室・南殿との間に設けた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)。 秀吉の正室のねねには子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。 その存在を疑問視する声も多いが、宝厳寺の「竹生島奉加帳」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、その母の南殿と共に記されており、また、滋賀県長浜市の妙法寺に秀勝の肖像画が所蔵されていたが焼失し、現存していない。 妙法寺に天正4年10月の銘文がある秀勝のものと思われる供養塔が残っている。 長浜市の徳昌寺には位牌がある。 法名は本光院朝覚居士。 秀吉は幼くして没した彼を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の内の何人かに名乗らせている。 羽柴秀勝や豊臣秀勝もその一人である。 ※2豊臣 鶴松(とよとみの つるまつ) 母は側室の淀殿。同母弟に豊臣秀頼。幼名は棄(すて)。 天正17年(1589年)5月27日、豊臣秀吉の長男として山城の淀城で誕生。このとき秀吉53歳という高齢であった。 実子を失っていた秀吉の晩年の子であったため、後継者として期待されるが、生来病弱で、天正19年(1591年)閏1月に発病し、一旦は快復したものの、8月5日に大坂城にてわずか3歳で病死した。 ※3豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)/羽柴 秀頼(はしば ひでより) 【1593年~1615年】 母は淀殿(浅井長政の娘・茶々)。幼名は拾・拾丸。 秀吉の晩年に生まれ、天下人の愛情を一身に集めた。文禄4年(1595)に秀吉の養子で、継嗣と目されていた豊臣秀次が自害したことにより豊臣氏の世継ぎとなった。 慶長3年(1598)4月に従二位・権中納言となる。 父の秀吉は死期が近いことを悟ると我が子の行く末を案じ、徳川家康・前田利家ら五大老から誓紙を取り、将来を頼んだ。だが慶長5年(1600)の関ヶ原の役で、秀頼を擁立するという名目の西軍(石田三成方)が敗れたため、徳川家康が天下の実権を掌握、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国65万7千石余を領する一大名に転落、天下の支配権を失った。 慶長8年(1603)に家康の孫・千姫を娶り内大臣、慶長10年(1605)には右大臣に進むが、慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件で関東(徳川氏)と完全に手切れになり、大坂の陣が勃発。 この大坂冬・夏の両陣を通して、秀頼は一度も兵の前に姿を現さなかった。夏の陣の戦況が絶望的となったとき、秀頼出馬によって大坂方将兵の士気を鼓舞し、徳川方についている豊臣恩顧の諸将の動揺を企図する真田幸村らの要請を受けて出陣の様相を整えたが、淀殿の強硬な反対にあって結局は城を出ることなく終わってしまったのである。 慶長20年(=元和元年:1615)5月、居城の大坂城を囲まれて自刃した。享年23歳だった。 大坂城の奥深くで、世間と没交渉のままで育ったためか、秀頼の人間像を伝える記録は断片的にしか残されていないという。しかし、会見した家康の言葉では「秀頼は愚魯なる人と聞きしに、一向にそんなことはなく、賢き人」とあり、その姿は長身の堂々たる偉丈夫だったという。 *文禄2年(1593年)、秀吉57歳のときの子で、大坂城で生まれたとされているが、秀吉の他の大勢の側室に子ができなかったことから、当時から秀吉の実子ではないのではないかとの噂が絶えなかった。 ■豊臣秀頼について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hideyori.html

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

詳しいご解説ありがとうございました。

お礼日時:2008/9/7 14:32

その他の回答(1件)

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1)石松丸秀勝は幼くして病没 2)最初の女児は地震の際に死亡 3)淀君との最初の子、「捨」は幼児期に死亡 4)「拾」は指摘の通り、後の秀頼

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